今鏡 - 45 花の山

おほとのゝをのこ公だちは、後の二条殿のつぎに、花山院の左のおとゞいへたゞとて、大臣の大将にて、ひさしく一のかみにておはしき。そのはゝは、みのゝかみよりくにときこえし源氏のむすめのはらにおはす。このおとゞ、関白にもなり給ふべき人におはすれど、御あにの二条殿の御子、ふけの入道おとゞの大殿のうまごにおはするうへに、御子にしたてまつり給ひて、関白つぎ給へれば、大殿のおはしましゝ代より、ふけ殿をたのみに してあれと、おほせられをきてさせ給ひければなにごとも申しあはせつゝすぎたまへりけるに、ふけ殿関白になり給ひて、大将のきたまへりけるを、白河院の御おぼえにて、宗通大納言なるべしときこえければこのおとゞ、ふけどのにいかゞし侍るべきと申しあはせ給ひければいかにもちからおよばぬことにこそあめれ。さるにても、もしすこしのつまともやなると、中宮に心ざしをみえ申し給へ。このいへにいとなきことなれどなど侍りければまことにしか侍事とて、申しいれたまへりければ思ひがけぬ御心ざしなどきこえ給ひけるほどに、白川院宗忠のおとゞ、頭弁におはしけるとき、ゝとまゐれと侍りければおそくやおぼしめすらんと、おそれおぼしけれど、いと心よき御けしきにて、堀川のみかど、くらゐおはしましゝとき、うちへまゐりて申せとて、大将あきて侍るに、むねみちをなし侍らんと思ひ給ふなり。をさなくよりおほしたて侍りて、さりがたく思ふあまりになんなどそうせよと侍りければ、わづらはしきことにかゝりぬと思ながら、まゐり給へりけるに、うちは御ふえふかせ給ひて、きこしめしもいれざりけるを、ひまうかゞひてかくとそうし給ひければ御返事もなくて、なほふえふかせたまひて、いらせたまひにけるを、いそぎて返事申せと侍つる物をと思ひて、おどろかし申されければ、いでさせ給ひて、いかさまにも、御はからひにこそ侍らめ。かくおほせつかはすべしともおもふたまへ侍らず。かゝるおほせ侍れば、おそれながら申し侍るになん。むかしうけたまはり侍りしおほせに、よのまつりごとはつかさめしにあるべきなり。しかあれば大臣大将などよりはじめて、ゆげいのまつりごとまで、人のみゝおどろくばかりのつかさをばよくためらひて、よの人いはんことをきくべきなりと、うけたまはり侍りしより、いとかしこきおほせなりと、心のそこにおもひ給ひてなん、まかりすぎ侍る。この大将のことは、しかるべきにとりて、いへたゞこそ、関白の子にて侍るうへに、くらゐも上らうに侍るをこえ侍らんや。いかゞと思ふたまふるに、下らうなりとも、身のざえなどすぐれ侍らば、そのかたともおぼえはべるべきに、それもまさりたることも侍らず、いかにも御はからひに侍るべしと申せと、のたまはせければかへりまゐられはべりけるに、いそぎとはせ給ひけるに、かくと申しければ院きかせ給ひてしばしさぶらへとて、かさねてめして、えもいはずのたまはするものかな。まことにことわりなりとて、いへたゞおほせくだすべきよし侍りてぞこのおとゞ大将にはなりたまひける。このおとゞの御子は、中納言たゞむねと申しき。その中納言は、はりまのかみ定綱ときこえしむすめのはらにおはしき。中納言いとよき人にぞ おはせし。雅兼の中納言とならび給ひて、五位蔵人十年ばかり、蔵人頭にても十年などやおはしけん。廿年の職事にて、ふたりながら、おなじやうにつかへ給ひしに、むかしにもはぢず、すゑのよには、ありがたき職事とて、をしまれ給ふほどに、中<おそくのぼりたまふとぞ、いたみ給ひける。宰相中納言まで、おなじやうにならびてのぼり給ひき。忠宗の中納言は、中宮権太夫ときこえ給ひき。その中納言の御子は、修理のかみいへやすときこえしはらにおはする公だち、花山院のおほきおとゞ忠雅、又中納言忠親など申して、おやの御子なれば、よきかんだちめたちにぞおはすときこえ給ふ。忠親の中納言、これもおやたちのおはせしやうに、まさかぬの子の、雅頼の中納言と、蔵人頭にならびて、宰相中納言にも、おなじやうにうちつゞきのぼり給ふなるも、いとかひ<”しく、たゞまさのおとゞは、三位中将大臣大将などへ給ひて、おほきおとゞまでいたり給へり。その御子におはするなる、兼雅の中納言は、家成の中納言の、むすめのはらにやおはすらん。それも、三位の中将などきこえ給ひき。中宮権大夫のあにゝて、はりまのすけ、たゞかぬといふ人もおはしけり。おとうとの中納言の、かんだちめになり給ひてのち、おやのおほいどの大将をたてまつりて、少将にはじめてなし申したまひけるとかや。その少将のこに、光家とかきこえ給ひけるを、大臣殿の御子にし給ひて、殿上したまへりける。侍従におはしけるをば、かのこしゞうとぞ人は申しける。おやはかくれて、このあらはれたるとりなるべし。そのおやの少将はこよりのち、殿上もし給ひけるとかや。おほいどのゝ三郎にては、あぜちの大納言經實と申しておはしき。二位大納言とぞ申しし。二位宰相など申しつけたりけるとぞ。その御はゝはみのゝかみ基貞のむすめなり。その大納言の御むすめ、公實の春宮太夫のおほいぎみのはらにおはせしを、院の宮とておはしましゝに、まゐり給ひて、二条のみかどをうみたてまつりてかくれ給ひにき。きさきをおくられ給ひて、ちゝの大納言殿は、おほきおとゞおくられ給へるとぞ。その贈后のひとつ御はらにおはすなる。このころはつねむねの左のおとゞときこえ給ふ。二条の院の御をぢにておはせしうへに、われからもはか<”しくおはするにや。よきかんだちめとぞきこえたまふめる。おやの大納言殿も、あにの中納言殿も、物などかき給ふことおはせずときこえしに、これはふみにもたづさはり給へるとぞきこえ給ふ。御子に中将のきみおはすなる、清隆の中納言のむすめのはらにやおはすらん。この大臣殿の御あにども、おほくおはするなるべし。經定の中納言は、治部卿通俊 のむすめのはらにおはしけるとぞきこえし。そのつぎに、みつたゞの中納言ときこえ給ふも、左のおとゞの御あにゝおはするなるべし。二条のおほぎさいのみやの女房のこにおはせしを、かのみやゝしなはせ給ひて、はるわかぎみときこえし、このころは前中納言民部卿になり給ふとかや。あはぢの大納言の御子は、おほくおはしけるとぞきこえし。おほ侍従などいひてもおはしき。仁和寺に静經僧都ときこえたまひしは、よき真言師にて、しるしある人とてきこえ給ひし。おほとのゝ四郎にやあたり給ひけん。あぜちのひとつはらによしざねの大納言と申しし、をのゝ宮とぞきこえ給ひし。あにの殿よりも、もじなどかきたまひしにや。けびゐしの別当などし給ひき。大殿の五郎にやおはしけん。忠教の大納言、四条の民部卿とぞきこえ給ひし。その御はは遠江守永信がこに、蔵人おりて、つかさもなかりしにや。永業ときこえし人のむすめのはらにおはす。その民部卿の御子どもあまたおはしき。忠基の中納言と申しし、つくしの帥になり給へりしかとよ。かぐらのふえをぞよくふき給ひけると、うけたまはりし。その御子に、六角の宰相家通と申すなるは、重通のあぜちの大納言のやしなひ申し給ひけるとぞきこえ給ふ。