圓融院の御ときにや。横川の慈恵大僧正まゐり給へりけるに、真言のおこなひの時、行者の本尊になることは、あるべきさまをすることにや。又まことに、ほとけになることにてあるかと、とはせ給ひければその印をむすびて、真言をとなへ侍らんには、いかでかならぬやうは侍らんと、こたへ申し給ひければ五壇の御修法に、みかどあはせ給ひて、御らんじけるに、阿闍梨の印をむすびて、定にいりたるとはみゆれども、もとのすがたにてこそはあれと、おほせられければまことに本尊になりて侍を、御さはりものぞこらせたまひ、御くどくも、かさならせおはしましなば、御らんぜさせ給ふこともおはしましなんど申し給ひけるに、たび<かさなりて、御覧じければ大僧正不動尊のかたち、本尊とおなじやうになりて、けしやきしてゐたまひたりけるに、ひろさはの僧正も又降三世になりたまひたりけるが、ほどなくれいの人になり、又ほとけになりなどし給ひけり。いま三人は、もとのさまにて、ほとけにもならず。かく御らんじて後に、大師まゐり給へりけるに、まことにたふとき事ををがみつることの、よにありがたきとおほせられて、寛朝こそいとほしかりつれ。心のみだれつるにや。ほどなくすがたのもとのやうになりかへりつると、おほせられければ、大師の申したまひけるは、寛朝なればまかりなるにこそ侍れとぞゝうし給ひける。 禅林寺の僧正ときこえ給ひけるが、宇治のおほきおとゞにやおはしけん。時の関白殿のもとに、消息たてまつりて、法蔵のやぶれて侍る、修理して給はらむと侍りければ、家のつかさなにのかみなどいふ、うけ給はりて、しもけいしなどいふものつぎかみぐして、僧正の坊にまうでゝ、とのより法蔵修理つかまつらんとて、やぶれたる所々、しるしになむまゐりたると申しければ僧正よびよせ給ひて、いかにかくふかくには おはするぞ。おほやけの御うしろみも、かくてはいかゞし給ふと申せと、侍りければかへりまゐりて、しるしにまうで侍つれ共、いづくなる法蔵とも侍らず。いかに心えぬやうには侍ぞ。おほやけの御うしろみも、いかやうにか、御さた候ふらんなど、おもひかけず、心えぬ御返事なむ、の給はせつると申しければ、こはいかに。さはいかにすべきぞなど、おほせられければとしおいたる女房のあれば御はらのそこなはせ給へるを、みのりのくらとは侍るものをと申しければさもいはれたること、さもあらんとて、まなの御あはせどもとゝのへて、たてまつり給へりければ材木給はりて、やぶれたる法蔵つくろひ侍りぬとぞ、きこえ給ひける。このころの人ならば、関白殿に申さずとも、かくして給ふこと、僧ゐしなどいふものに、心あはせて、とゝのへさせらるべけれども、かく申され侍りとかや。かの僧正大二条殿のかぎりにおはしましけるに、まゐり給ひて、圍碁うたせ給へと申したまひければいかにあさましき事など侍りけれど、あながちに侍りければやうぞあらむとて、ごばんとりよせ、かきおこされたまひて、うたせ給ひけるほどに、御はらのふくれへらせ給ひて、一番がほどに、れいざまにならせ給へりける、いとありがたき験者に侍りけり。経などよみ、いのり申すなどせさせ給はんだに、かたときのほどに、めでたく侍べきに、ごうちてやめ申させ給ひけんも、たゞ人にはおはせざるべし。 むかし勘解由長官なりける宰相の、まだ下臈におはしけるとき、おやの豊前守にて、つくしにくだりけるともにまかりたりけるに、そのちゝくにゝてわづらひてうせにけるを、その子のちゝのために、泰山府君のまつりといふ事を、法のごとくにまつりのそなへどもとゝのへて、いのりこひたりければそのおやいきかへりて、かたられ侍りけるは、炎魔の廰にまゐりたりつるに、いひしらぬそなへをたてまつりけるによりて、かへしつかはすべきさだめありつるに、その中に、おやの輔通をばかへしつかはして、そのかはりに、子の有國をばめすべき也。そのゆゑは、みちのものにもあらで、たはやすくこのまつりをおこなふとがあるべしとさだめありつるを、ある人の申されつるは、孝養の心ざしあるうへに、とをきくにゝみちの人のしかるべきもなければおもきつみにもあらず。有國めさるまじとなんおぼゆると申さるゝ人ありつるによりて、みな人いはれありとて、おやこともにゆるされぬるとなんはべりけるとぞ。そのながれの人の、ざえもくらゐも、たかくおはせし人のかたられ侍りける。 一条院の御ときなどにや侍りけん。六位の史をへて、かうぶり給はれるが、あがためしに、心たかくはりまのくにのつかさのぞみければこと人をなされけるに、たび<すみをすりてかきつけらるれども、おほかたもじのかゝれざりければいかゞすべきとさだめられけるに、はりまの國のぞむ申ぶみを、みなとりあつめて、かゝるべきさだめありて、えらひすてたる申ぶみどもをも、おほつかの中よりもとめいでゝ、みなかゝれけるに、かの史太夫相尹とかいふが名の、あざやかにかゝれたりけるとなむ。齋信民部卿の宰相におはしけるとかや。その座にてみ給ひければちひさき手して、ふでのさきをうけて、かゝせぬとぞみ給ひける。聖天供をしていのりけるしるしになむありける。その供は、勧修僧正とかの、せられけるとかや。たしかにもおぼえ侍らず。かくきゝ侍りしを、又人の申ししは、一条院の御時、長徳四年八月廿五日、外記の巡にて佐伯公行といふものこそ、はりまのかみにはなりたれ。かの國の書生とかにてもとありけるとかや。相尹といふものは、なりたることもみえずと申す人もありきとなむ。