今鏡 - 72 腹々のみこ

きさいの宮、女御更衣におはせねど、御子うみたてまつり給へるところ<”、ちかきみよにあまたきこえ給ひき。きさきばらのみやたちは、みな申し侍りぬ。ちり<”にうちつゞきおはしますおほくきこえ給ふ。白川院のきさきばらの女宮、みところの外に、承香殿の女御のうみたてまつり給ひしは、伊勢のいつきにおはしき。それは女四宮なるべし。女五宮も、天仁元年しも月のころ、みうらにあひたまひて、齋宮ときこえ給ひき。御はらはいづれにかおはしけん。ひがことにや侍らん。季實とかきこえし、むすめにやおはしけむ。勢賀院の齋院と申しゝも、おなじころ、たち給ふときこえき。それは頼綱ときこえし、源氏のみかはのかみなりしが、むすめのはらにおはすときこえき。七十にあまり給ひて、まだおはすときこえ給ひき。からさきのみそぎ、上西門院せさせ給ひしころ、そのつゞきに、院の御さたにて、殿上人などたてまつらせ給ひけり。とのもりのかみなにだいふとか名ありし人、御うしろみにて、御くるまのしりに、あやのさしぬき、院のおろしてきてわたるなど、きこえき。をとこはこのよには、おほくほとけの道にいり給ひて、御元服もかたくて、うへの御ぞのいろなども、たづねえ侍らぬをり<も侍るとかや。くらゐおはしまさぬほどは、淺黄と日記に侍るなるをば、あをきいろか。きなるか。なほおぼつかなくて、はなぞのゝおほいどのに、たづねたてまつられけるも、をさなくておぼえ給はぬよし申したまふなどきこえし。一宮の御元服のは、きなるをたてまつれりけるなるべし。くらゐまだえさせ給はねば、きなるころもにぞまことにもおはしますらむ。無位の人は、黄袍なるべければをのゝたかむらが、をきよりかへりて、つくりたる詩にも、こふきみきくをあいせば、我をみるべし。しろきことはかうべにあり。きなることはころもにあり。などぞきこえ侍りし。神のやしろのきかりぎぬなども、くらゐなきうへのきぬの心なるべし。かやうのついでに、ある人の申されけるは、つるばみのころもは、王の四位のいろにて、たゞ人の四位と王五位とはくろあけをき、たゞ人の五位、あけの衣にてうるはしくはあるべきを、いまの人心およすげて、四位は王の衣になり、五位は四位のころもをきるなるべし。けびゐし上官などは、うるはしくてなほあけをあらためざるべしとぞ侍りける。仏のみちにいりたまへるは、このころうちつゞかせ給へり。仁和寺に覚行法親王ときこえたまひしは、白河の院のみこにおはす。御ぐしおろさせ給ひて、やう<おとなに ならせ給ふほどに、いとかひ<”しくおはしければさらに親王の宣旨かぶり給ふとぞきこえ侍りし。おほ御むろとておはしまししは、三条院の御子、師明親王ときこえ給ひし、まだちごにおはしまして、御子の御名えたまひければ法師のゝちも、親王のせんじかぶり給はず。その宮につけたてまつりたまひしに、御でしのみやはわらはにても、親王の御名えたまはねども、親王のせんじかぶり給へり。後二条のおとゞ出家のゝちは、れいなきよし侍りけれども、白川院、内親王といふこともあれば、法親王もなどかなからんとてはじめて法師ののち、親王ときこえ給ひしなり。かくてのちぞ、うちつゞきいづくにも出家のゝちの親王ときこえ給ふめる。そのおとうとにて、覚法々親王ときこえたまひしは、六条の右のおとゞの御むすめのうみたてまつり給へりし、法性寺のおとゞのひとつ御はらからにおはす。さきに申し侍りぬ。みかどの御子、関白など、ひとつはらにおはします、いとかたきことなるべし。この御むろは、おほきにこゑきよらかなる人にぞおはしける。真言の道よくならひ給ひ、又てかきにてもおはしけり。みだうのしきしかたなどかき給ふときこえ給ひき。高野の大師の、てかきにおはしければにや。御むろたちも、うちつゞき、てかきにぞおはすなる。かうやへまうでたまひけるみちにて、
  さだめなきうき世の中としりぬればいづくもたびの心ちこそすれ
とよみたまへりけるとぞ。横河の覚超僧都の、よろづのことをゆめとみるかな。といふ哥おもひいでられて、あはれにきこえ侍る御哥也。又仁和寺に花蔵院の宮とてもおはしましき。それはこと御はらなるべし。御母は大宮の右のおとゞの御子に、なでしこの宰相とかきこえ給ひしむすめとぞ、六条殿とかきこえ給ひて、のちには九条の民部卿とおはしけるとかや。このみやはいみじくたふとき人ときこえ給ひき。長尾の宮とも申しき。また三井寺大僧正行慶ときこえたまひしもおはしき。備中守政長ときこえし人の、むすめのはらにおはす。これも真言よくならひ給へるなるべし。この院も、この僧正にぞおこなひのことうけさせ給ふときこえし。法性寺のおとゞ、御ぐしおろしたまひて、御かいの師にし給ふともきこえき。こまの僧正とも申すなるべし。天王寺へまうでたまひけるに、なにはをすぎ給ふとて、
  ゆふぐれになにはわたりを見渡せばたゞうすゞみのあしで成りけり
となむきこえし。ことゝころのゆふべののぞみよりも、なにはのあしでとみえん。げにと きこえはべり。かへるかりのうすゞみ、ゆふぐれのあしでになりたるも、やさしくきこえ侍り。又若御前法眼ときこえ給へりしも、白川院の御子にやおはしけむ。みちのおくのかみ、有宗といひしがむすめのはらにおはすとぞ。ほりかはのみかどの宮たちは、やまに法印などきこえたまひし、のちには座主になりて、親王のせんじかぶり給ひて、座主の宮ときこえき、伊勢の守時經とて、傅の大納言のすゑときこえし、むすめのうみたてまつれるとぞ。又仁和寺の花蔵院の大僧正と申ししは、あふみのかみ隆宗ときこえしがむすめのはらとぞきこえ給ひし。僧正御身のしづみ給へることを、おもほしける時よみたまへりける、
  さみだれのひまなき比のしづくには宿もあるじも朽にける哉
とぞきこえ侍りし。みをしるあめ、時にもあらぬしぐれなどや、御そでにふりそひたまひけむと、いとあはれにきこえ侍り。女宮は、大宮の斎院ときこえ給ふおはしき。やがてかの大宮の女房の、うみたてまつれりけるとなん。又さきの斎宮も、ほりかはの院の御むすめときこえ給ふ。またこのころもおはするなるべし。とばの院の宮は、女院ふたところの御はらのほかに、三井寺の六宮、山の七宮とておはします。御はゝ石清水のながれとなん、きゝたてまつりし。としよりの撰集に、鹿のうたなどいりて侍り。光清法印とかいひける、別當のむすめとなむ。小侍従などきこゆるは、小大進がはらにて、これはさきのはらからなるべし。白河院の御時より、ちかくさぶらひて、とばの院には、御子あまたおはしますなるべし。又そのおなじはらに、あや御前ときこえさせ給ふ、御ぐしおろして、雙林寺といふ所にぞおはしますなる。てらの宮は、ひとゝせうせ給ひにき。やまのは、法印など申しし、親王になり給ふとぞ、又宰相の中将家政ときこえし御むすめ、待賢門院におはしけるも、とばの院の御子うみたてまつり給へりし、吉田の斎宮と申しき。それもうせ給ひて、八九年にもやなりはべりぬらん。あまにならせ給ひて、ちゑふかく、たふとくきこえさせ給ひき。その御母こそは、あさましくてうせ給ひにしか。かうちのかみなにがしとかいひしがこなるをとこのいかなることのありけるにか。うしなひたてまつりたるとて、おやもつみかぶりて、みやこにもすまざりき。又徳大寺の左のおとゞの御むすめとて、とばの女院に候ひ給ひけるも、女三のみこうみたまひて、かすがのひめ宮ときこえ給ふ。冷泉のひめみやと申すにや、そのはゝをかすが殿と申すなるべし。又せが院のひめみや、斎院のひめ宮、たかまつの宮など、きこえさせ給ふも、 おはしますなるべし。とばの院の宮たちは、をとこ女きさきばら、たゞのなどゝりくはへたてまつりて、をとこ宮八人、女宮八九人ばかり、おはしますなるべし。さぬきの院の一のみこときこえたまひしは、重仁親王と申しけるなるべし。その御はゝ、院にぐしたてまつりて、とをくおはしたりけるが、かへりのぼり給へるとぞきこえ給ふ。みかどくらゐにおはしましし時、きさいの宮、一の人の御むすめにておはしますに、うちの女房にて、かの御はゝ、みやづかへ人にてさぶらひ給ひしが、ことの外にときめき給ひしかば、きさきの御かたの人は、めざましくおもひあひて、人の心をのみはたらかし、世の人も、あまりまばゆきまでおもへるなるべし。さりとて、御うしろみのつよきもおはせず。たゞ大蔵卿行宗とて、とし七十ばかりなるが、うたよみによりて、したしくつかうまつりなれたるを、おやなどいひて、兵衛佐などつけ申したるばかりなれば、さるべきかた人もなし。まことのおやは、をとこにはあらで、むらさきのけさなど給はりて、白河のみてらのつかさなりけり。それもうせて、としへにけり。しかるべき人のこなりけれど、をとこならねば、かひなかるべし。つねにさぶらふ、なにの中将などいふ人の、かたこゝろあるなども、めをそばめらるゝやうにて、はしたなくなんありける。されど、たぐひなき御心ざしをさりがたきことにてすぐし給ふほどに、をのこぎみうみいだしたまへれば、中宮にはまだかゝることもなきに、いとめづらしく、いとゞやすからぬつまなるべし。御おほぢの一院もきかせ給ひて、むかへとり給ひて、女院の御かたにやしなひ申させ給ふ。やう<うちの御めのとごの、はりまのかみ、はゝきのかみなどいふ人ども、かのさとや、つぼねなどの女房などかみしものことゞも、とりさたすべきよしうけ給はりて、つかうまつり、わか宮の御めのと刑部卿などいひて、大貳の御めのとのをとこときこゆ。みこも親王の宣旨などかぶり給ひて、御元服などせさせ給ひぬ。かくてとし月すぐさせたまふほどに、くらゐさらせ給ひて、新院とておはしますにも、よにたぐひなくて、すぐさせたまへは、きさいの宮、殿の御わたりには、心よからずうときことにてのみおはします。本院の御まゝなれば、よをこゝろにまかせさせ給はず、うち、中宮、殿などに、ひとつにて、世の中すさまじきことおほくて、おはしますべし。かやうなるにつけても、わたくしものに、おもほしつゝ、すぐさせ給ふに、法皇かくれさせ給ひぬるのち、世の中にことゞもいできて、さぬきへとをくおはしましにしかば、やがて御ふねにぐしたてまつりて、かのくにゝとしへたまひき。一のみこも、御ぐしおろし給ひて、仁和寺大僧正寛暁と申ししにつかせ給ひて、真言など ならはせ給ひけるに、さとくめでたくおはしましければむかしの真如親王もかくやとみえさせたまひけるに、御あしのやまひおもくならせ給ひて、ひとゝせうせさせ給ひにけり。御とし廿二三ばかりにやなり給ひけん。さぬきにも、御なげきのあまりにや。御なやみつもりて、かしこにてかくれさせ給ひにしかば、みやの御はゝものぼり給ひて、かしらおろして、醍醐のみかどの御はゝかたの、御寺のわたりにぞすみ給ふなる。かの院の御にほひなれば、ことわりと申しながら、哥などこそ、いとらうありてよみ給ふなれ。のぼり給ひたりけるに、ある人のとぶらひ申したりければ、
  君なくてかへるなみぢにしほれこしたもとを人の思ひやらなん
とはべりけるなん、さこそはと、いとかなしくおしはかられ侍りし。院の御おとうとの、仁和寺の宮おはしましゝほどは、とぶらはせ給ふときこえしに、みやもかくれ給ひて、心ぐるしくおもひやりたてまつるあたりなるべし。そのとをくおはしましたりける人の、まだ京におはしけるに、白河にいけどのといふ所を人のつくりて、御らんぜよなど申しければわたりてみられけるに、いとをかしくみえければかきつけられけるとなむ。
  おとはがはせきいれぬやどの池水も人の心はみえける物を
とぞきゝ侍りし。又さぬきの院の皇子はそれも仁和寺のみやにおはしますなる、法印にならせ給へるとぞ、きこえさせたまふ。それも真言よくならはせ給ひて、つとめおこなはせ給へりとぞ、上西門院御子にし申させ給へるとぞ。その御はゝは、もろたかの大蔵卿の子に、参河権守と申す人おはしけるむすめの、さぬきのみかどの御とき、ないしのすけにて候はれしが、うみたてまつり給へるとぞ、きこえさせ給ふ。さぬきの法皇、かくれさせ給へりけるころ、御ぶくは、いつかたてまつると、御むろよりたづね申させ給へりければ、
  うきながらその松山のかたみにはこよひぞふぢの衣をばきる
とよませ給へりける。いとあはれにかなしく、又御おこなひはてゝ、やすませたまひけるに、あらしはげしく、たきのおとむせびあひて、いと心ぼそくきこえけるに、
  夜もすがら枕におつるおときけば心をあらふたにがはのみづ
とよませたまへりけるとぞきこえ侍りし。むかしのかぜふきつたへさせ給ふ。いとやさしく、女宮はきこえさせ給はず。いまの一院のみやたちは、あまたおはしますとぞ。きさきばらのほかには、たかくらの三位と申すなる御はらに、仁和寺の宮の御むろつたへて おはしますなり。まだわかくおはしますに、御おこなひのかたも、梵字なども、よくかゝせ給ふときこえさせ給ふ。つぎに御元服せさせ給へる、おはしますなるも、御ふみにもたづさはらせ給ひ、御てなど、かゝせ給ふときこえさせ給ふ。その宮も、みやたちまうけさせ給へるとぞ。おなじ三位の御はらに、女宮もあまたおはしますなるべし。伊勢のいつきにてあねおとうとおはしますと、きこえさせたまひし、おとうとのみやは、六条の院のせんじ、やしなひたてまつりて、かの院つたへておはしますとぞきこえさせ給ふ。又賀茂のいつきにもおはするなるべし。また女房のさぶらひ給ふなる、御おぼえの、なにがしのぬしとかきこえし、いもうとのはらにも、みやたちあまたおはしますなるべし。三井寺に法印僧都などきこえさせ給ふ。又女宮もおはしますとぞ、おほいのみかどの右のおとゞの御むすめも、ひめ宮うみたてまつり給へる、おはしますときこえ給ふ。又ことはらの宮々もあまたおはしますなるべし。二条のみかどの宮たちも、をとこ宮女宮きこえさせ給ふ。その女みやは、内の女房うみたてまつりたまへるとぞ。なかはらのうぢのはかせのむすめにぞおはすなる。をとこ宮は源氏のうまのすけとかいふ、むすめのはらにおはしますとかきこえ給ふ。又徳大寺のおとゞの御むすめのはらとかきこえ給ふは、くらゐにつかせたまへりし、さきに申し侍りぬ。又かんのきみの御おとうとにおはしけるが、うみたてまつり給へる、おはしますときこえさせたまふ。かくいまの世のことを申しつゞけ侍る。いとかしこく、かたはらいたくもはべるべきかな。