今鏡 - 71 月の隠るる山のは

このおとゞの御子のおはせぬぞ、くちをしけれど、かへりてはあはれなるかたもありて、なごりをしく侍りて、われものたまはせけるは、いとしもなき子などのあらむは、いとほいなかるべし。むらかみのみかどのすゑ、なかつかさの宮のうまごといふ人々みるに、させることなき人々どもこそおほくみゆめれ。わがこなどありとも、かひなかるべしなどぞ有りける。ひめぎみこそおはすなれ。きたのかたの御はらにはあらで、うちにつかひ給へりけるわらはの、おほくの人のなかに、いかなるすぐせにか、うみきこえたるとなん。上西門院にぞおはすときこえ給ふ。ことびはなども、ひき給ふともしられておはしけるに、月あかきよ、しのびてかきならし給ひけるより、あらはれ給ひけるとかや。又ことはらに、女君きこえ給ふは、たかまつの院にまゐりかよひ給ひて、殿上人の車などつかはして、むかへなどせさせ給ふとかやぞきこえ給ふ。大将殿、いづれのほどにか侍りけん。としごろすみたまひし、れんぜい、ひんがしのとうゐんよりにや侍りけん。なゝ夜、かちより御そくたいにて、いはしみづのみやに、まゐり給ひけるに、光清とかきこえし別當、御まうけたか房とかいふにして、御きそくきこえけれど、ことさらにたちやどることなくて、このたびはまゐらむと、心ざしたれば、えなむいるまじきとて、より給はざりけるに、なゝ夜まゐりはて給ひけるよ、みつといふところにおいて、たてまつりける。
  さいはいとさんぞのおまへふしをがみなゝよのねがひとをながらみて
とよめるを、御神のみことゝたのまんとて、御ふところにをさめさせ給ひて、 かへさにのり給ふ御むまをくらおきながらぞ、ひきて給はせける。その御とも人など、いかばかりなる御心ざしにて、かくかちの御ものまうで、よをかさねさせ給ふらん。あら人神、むかしのみかどにおはしませば、ながれのとだえさせ給ふ御ことにやなど、おぼつかなくおぼえけるに、臨終正念往生極楽、としのびてとなへさせ給ひける御ねぎごとにてぞあはれにかなしくうけ給はりしときこえはべりける。おほいどの、ゝちには大将もじゝ給ひて、たゝ左のおとゞとておはしき。仁和寺にはなぞのといふところに、山里つくりいだしてかよひ給ふに、四十にあまりてや、うせ給ひにけむ。ちかくなりては、御ぐしおろし給ひけるに、すがたはなほ昔にかはらず、きよらにて、すこしおもやせてぞみえ給ひける。いわくらなるひじりよびて、えぼうしなほしにていでゝ、御ぐしおろし給ひける、いとかなしく、みたてまつる人も、なみだおさへがたくなんありける。ゑちごのめのと、かぜいたみけるころ、はなにさして、
  われはたゞ君をぞをしむ風をいたみ散なん花は又も咲なん
とよみたまひけるを、めのとはつねにかたりつゝ、こひ申しける。この大将殿、みかどのうまご宮の御子にて、たゞ人になり給へる、このよにはめづらしく、きゝたてまつるに、なさけおほくさへおはしける。いとありがたく、きゝたてまつりしに、まださかりにて、雲かくれ給ひにけむ。いとかなしくこそ侍れ。かのはなぞのも、雲けぶりとのぼりて、あとさへのこらぬときゝ侍こそ、あはれに心うけれ。そのわたりにまうでかよひける人、
  いづくをかかたみともみんよをこめてひかり消にし山のはの月
三のみこの御子には、また信證僧正とて、仁和寺におはしき。鳥羽院御ぐしおろさせ給ひし時、御戒師におはしき。又山にも僧都のきみなどいひてきこえ給ひき。一定にもなかりしにや。院よりおほい殿にたづね申させ給ひけるとかや。御むすめは、おほい殿のひとつはらに、伊勢のいつきにてくだり給へりき。のちはふしみの齋宮と申しし、これにやおはすらん。又行宗の大蔵卿のむすめのはらに、斉院もおはするなるべし。このころむそぢなどにや、あまり給ふらん。そのいつきにおはせしころ、おほい殿本院にありすがはのもとのさくらのさかりなりけるにおはして、うたなどよみ給ひけるに、女房の哥とて、
  ちる花を君ふみわけてこざりせばにはのおもてもなくやあらまし
とぞきこえし。