今鏡 - 68 源氏の御息所

みかどの御おほぢにはおはせねど、春宮やみやたちの、御母におはせしは、後三條院の女御にて、侍従の宰相、基平の御むすめこそおはせしか。その宰相は、小一条院の御子におはしき。その源氏のみやす所、御名は基子女御とぞ申しし。その御せうとにては、春宮太夫季宗、大蔵卿行宗など申しておはしき。みな三位のくらゐにぞおはせし。大蔵卿は八十ばかりまでおはせしかば、ちかくまできこえ給ひき。哥よみにおはしき。ふたりながら、からのふみなどもつくり給ふとぞきゝ侍りし。良頼の中納言のむすめのはらのきんだちなり。女御もおなじ御はらからにおはす。又そのはらに、平等院の僧正行尊とて、三井寺におはせしこそ、なだかき験者にておはせしか。少阿闍梨など申しけるをりより、おほみねかつらぎはさることにて、とをき國々山々など、ひさしくおこなひたまひて、白河院鳥羽院、うちつゞき護持僧におはしき。仁和寺の女院の女御まゐりにや侍りけん。御物のけそのよになりておこらせ給ひて、にはかに大事におはしましけるに、この僧正いのり申し給ひければほどなくおこたらせ給ひて、御くるまに たてまつりて、いでさせ給ひにけるあとにものつきに、ものうたせてゐさせたまへりけるこそ、いとめでたく侍りけれど、つたへうけ給はりしか。僧正哥よみにおはして、代々の集どもにも、おほくいりたまへるとこそきゝ侍れ。笙のいはやにて、
  草のいほを何露けしと思ひけんもらぬいはやも袖ぞぬれける
なとよみ給へり。つたへきく人の袖さへしぼりつべくなんきこえ侍る。おほみねにて、後冷泉院うせさせ給ひて、よのうきことなど、おもひみだれてこもりゐて侍りけるに、後三条院くらゐにつかせ給ひてのち、七月七日まゐるべきよし、おほせられければよめる、
  もろともにあはれと思へ山桜花よりほかにしる人もなし
なとよみたまへる。哥よまざらんは、ほいなかるべき事なるべし。いとゞ御こゝろもすみまさり給ひけんかし。てかきにもおはして、かなの手本など、よにとゞまり侍るなり。ことはら<”にも、勧修寺僧正、光明山の僧都など申しておはしき。その女御の御はらに、御子あまたおはしき、春宮と申して、延久三年二月にむまれ給ひて、同四年十二月に、御としふたつと申しし。東宮にたち給ひき。永保元年八月に、御元服せさせ給ふ。應徳二年十一月八日、十五におはしましゝに、かくれさせ給ひにき。平等院の僧正は、女御の御せうとなれば、東宮の御いみにこもり給ひて、御はてすぎて、人々ちりけるに、ひたちのめのとに、おくり給ふときこえ侍りし、
  おもひきやはるのみや人なのみして花よりさきに散らむ物とは
とよみ給ひたりける、返し御めのと、
  花よりもちり<”になる身をしらでちとせのはると頼みける哉
とぞきゝ侍りし。これは白川院のことはらの御おとうと、後三条院の第二の御子也。東宮とおなじはらに、第三の御子おはしき。輔仁親王と申しき。延久五年正月にむまれ給へり。承保二年十二月に、親王のせんじかぶり給ふ。この御子はざえおはして詩などつくり給ふこと、むかしのなかつかさの宮などのやうにおはしき。哥よみ給ふことも、すぐれ給へりき。円宗寺の花をみたまひて、
  うゑおきしきみもなき世に年へたるはなやわがみのたぐひ成るらん
とよみ給へるこそ、いとあはれにきこえ侍りしか。かやうの御哥ども、むくのかみのえらびたてまつれる金葉集に、輔仁のみことかきたりければ白河院は、いかに こゝに見むほど、かくはかきたるぞと、おほせられければ三宮とぞかきたてまつれる。御なからひはよくもおはしまさゞりしかども、御おとうとゝなればなるべし。詩などはかずしらずめでたく侍る也。よろこびもなし、うれへもなし。世上の心とかやつくり給へりけるを、中御堂と申しておはせしが、のたまひけるは、うれへこそあはれとの給はせけれど、くらゐにはかならずしも、みかどの御子なれど、つぎ給ふことならねば、ものしり給へる人は、なげきとおぼすべからず。かの仁和寺の宮の、利口にこそあれ。なにごとかは御のぞみもあらむな。