今鏡 - 66 武蔵野の草

六条の右のおとゞは、おほかたきんだちあまたおはしき。太政のおとゞにつぎたてまつりては、大納言雅俊とておはしき。御はゝはみのゝかみ良任ときこえしむすめのはらなり。京極に九躰の丈六つくり給へり。その御子は、はら<”にをとこ女あまたおはしき。伊与のかみ為家のぬしのむすめのはらに、神祇伯顯重と申しき。もとはさきの少将ひぜんのすけにてぞひさしくおはせし。そのおなじはらに、四位の侍従顯親と申して、後は右京権太夫、はりまのかみなどきこえき。おなじ御はらに、かうづけのかみあきとしとておはしき。中宮の御おほぢにやおはすらん。憲俊の中将ときこえし、のちには、大貳になり給へりき。百郎と御わらはなきこえ給ひき。又摩尼ぎみときこえ給ひし左馬権頭など申しき。このほかにも、かうづけ、越中などになり給へるきこえき。又そう子もおほくおはするなるべし。大納言のおなじ御はらに、中納言國信と申しておはしき。ほりかはの院の御をぢの中にことにしたしくさぶらひ給ひけるとぞきこえ侍りし。哥よみにおはして、百首の哥人にもおはすめり。この中納言のひめぎみ、おほいぎみは、ちかくおはしましゝ摂政殿の御はゝ、 二位と申すなるべし。つぎには、入道どのにさぶらひ給ひて、さりがたき人におはすなり。第三のきみは、いまのとのゝ御はゝにおはします。三位のくらゐえ給へる成るべし。うちつゞき二人の一の人の御おほぢにて、いとめでたき御すゑなり。この中納言の御子に、四位の少将顯國とておはしき。そのはゝは、さきの伊与のかみ泰仲のむすめときこえき。その少将、いとよき人にて、哥などよくよみ給ひき。とくうせ給ひにき。少将のひとつはらのおとうとにやおはしけん。備前前司修理権太夫、越後守などきこえ給ひき。又六条殿の御子に、顯仲伯ときこえたまふ、大納言中納言などのあにゝやおはしけん。そのはゝは肥前のかみ定成のむすめのはらにやおはすらん。哥よみ、笙のふえの上手におはしけり。きんさとゝいひしが、調子をすぐれてつたへたりけるを、うつしならひ給へりけるとぞ。その御子、あはぢのかみ宮内大輔などきこえき。覚豪法印とて、法性寺殿の、仏のごとくにたのませ給へるおはしき。そうこもあまたおはするなるべし。女子はほりかはのきみ、兵衛のきみなどきこえ給ひて、みな哥よみにおはすときこえ給ひし。あね君はもとは前齋院の六条と申しけるにや。金葉集に、
  露しげき野べにならびてきり<”す我たまくらの下に鳴也
とよみたまへるなるべし。ほりかはとはのちに申しけるなるべし。かやうなる女哥よみは、よにいでき給はんこと、かたく侍べし。又やまもゝの大納言顯雅とて、六条のおほい殿の御子おはしき。そのすゑいとおはせぬなるべし。御むすめそ、鳥羽の女院の皇后宮の時、みぐしげどのとておはせし。女院の御せうとの、ひごのぜんじときこえしは、大納言のむこにおはせしかばなるべし。その大納言の御くるまのもんこそ、きらゝかにとをしろく侍りけれ。おほかたばみのふるきゑに、弘高金岡などかきたりけるにや。それをみてせられけるとぞ。いまはのり給ふ人も、おはせずやあらん。ものなどかき給ふことも、おはせざりけるにや。行尊僧正のもとに、やり給へりけるふみのうはがきには、きゝざうはうとうゐんの僧正の御ばうにとぞありける。かんなゝらば、きん<上なくてもあるべけれど、えかき給はぬあまりにやありけん。ことのはもえきこえ給はざりけり。たゞ車をぞなべてよりよくしたてゝ、うしざうしきゝよげにてありき給ひける、車などよくするは、まさなきことゝて、はげあやしくなれども、にはかにかきすゑたるこそ、しかるべき人はさもすると申すこともあるべし。これも又ひとつのやうにて、つやゝかにしたまひけるにこそ。かぜなどのおもくおはしけるにや。ひがことぞつねにしたまひける。 雨のふるに、車ひきいれよといはんとては、くるまふる。しぐれさしいれよと侍りければくるまのさま<”そらよりふらん、いとおそろしかるべしなど、思ひあへりける。かやうのことを、ほりかはの院きこしめして、ひがことこそ、ふびんなれ。いのりはせぬかと、おほせられければ御返事申されけるほどに、ねずみのはしりわたりければさればとう身のねずみつくらせ候ふと、申されければおほかたいふにもたらずとなんおほせられける。これはしなのゝかみ伊綱のむすめのはらにおはするなるべし。おなじはらに信雅のみちのくのかみとておはしき。かゞのかみ家定とて、久しくおはせしが、のちにみちのくにはなり給へりし也。その子は成雅のきみとて、知足院の入道おとゞ、てうし給ふ人におはすときこえき。のちにはあふみの中将ときこえしほどに、みやこのみだれ侍りしをり、左大臣殿のゆかりに法師になりて、こしのかたに、ながされ給ふときこえし、かへりのぼり給へるなるべし。そのなりまさの中将のあにゝもおとうとかにて、房覚僧正とて三井寺にげんざおはすとぞきこえ給ふ。又六条どのゝ御子に、いなばのかみ惟綱のむすめの内侍のはらに、雅兼の治部卿と申す中納言おはしき。さいかくすぐれ給ひ、公事につかへ給ふことも、むかしもありがたき人になんおはしける。詩つくり、うたよみにおはしき。たかくもいたり給ふべかりしを、御やまひにより出家し給ひて、ひさしくおはしき。鳥羽院大事おほせられあはせんとてつねはめしいでゝ、たいめんせさせ給ふをりども侍りけり。この入道中納言のきんだちぞ、この御ながれには、かんだちめなどにてもあまたきこえ給ふ。右中弁雅綱ときこえ給ひし、よくつかへ給ふとて、四位少将などに、めづらしくなりおこし給へりし、とくうせ給ひにき。その御おとうとに、能俊の大納言のむすめの御はらに、たうじ中納言雅頼ときこえ給ふこそ、入道治部卿の御子には、ふみなどつたへ給ふらめ。いへをつぎ給へる人にこそ。おなじ御はらに、そのつぎに大納言と申すは、入道右大臣の御子にしたまひて、たかくのぼり給へるなるべし。その御おとうと、四位少将通能と申すなるは、琴ひき給ふとぞきこえ給ふ。清暑堂のみかぐらにも、ひき給ひけるとなん。師能の弁とておはせし、やしなひ申し給へるときゝ侍りし、これにやおはすらん。六条のおほいどのゝきんだちなど、僧もおほくおはすれど、さのみ申しつくしがたし。山に相覚僧都とて、おほはらにすみたまふおはしき。だいごには、大僧正定海とて、さぬきのみかどのごぢそうにおはしき。なかには山しなでらの隆覚僧正、東大寺の覚樹僧都と申ししは、東南院ときこえ給ひき。みなやんごとなき学生におはしき、又覚雅僧都とてもおはしき。哥よみにぞ おはせし。すゑの世の僧などさやうによまんは有がたくや侍らん。白川院の、いとしもなくおぼしめしたる人にておはしけるに、としよりのきみ、金葉集えらびてたてまつりたりけるはじめにつらゆき、はるたつことをかすがのゝ、といふ哥、そのつぎに、覚雅法師とていり給へりけるを、つらゆきもめでたしといひながら、三代集にももれきて、あまりふりたり。覚雅法師も、げにもともつゞきおぼえずなど、おほせられければふるき上手どもいるまじかりけり。またいとしもなくおぼしめす人、のぞくべかりけりとて、おぼえの人をのみとりいれて、つぎのたびたてまつりければこれもげにともおぼえずとおほせられければまたつくりなほして、源重之をはじめにいれたるをぞとゞめさせ給ひけるは、かくれてよにもひろまらで、なかたびのが世にはちれるなるべし。又山におはせし妙香院の清覚内供などきこえ給ひし、その内供のひとつはらにやはたの御はらにや治部大輔雅光ときこえ給ひしうたよみおはしき。人にしられたる哥、おほくよみ給へりし人ぞかし。あふまでは思ひもよらず。又身をうぢがはのはしはしら、などきこえ侍るめり。その御子には、實寛法印とて山におはす。六条殿の御子は、又をとこも、たんばのぜんじ、いづみのぜんじなど申して、おはしき。はか<”しきすゑもおはせぬなるべし。