今鏡 - 63 有栖川

この中宮のひめみや、二条の大宮とて、女院の御おとうとおはしましゝ、令子内親王とて、齊院になり給ひて、後には鳥羽院の御母まで、皇后宮になり給ひて、大宮にあがらせ給ひにき。いと心にくき宮のうちときゝ侍りしは、侍従大納言三条のおとゞなど、まだげらうにおはせしとき、月のあかゝりける夜、さまやつして、みやばらをしのびてたちぎゝたまひけるに、あるはみなねいりなどしたるも有りけり。このみやにいりたまひければにしのたいのかた、しづまりたるけしきにて、人々みなねたるにやと、おぼしかりけるに、おくのかたに、わざとはなくて、さうのことの、つまならしして、たえ<”きこえけり。いとやさしくきこえけるに、きたのかたのつまなるつぼね、つまどたてたりければ月もみぬにやとおぼしけるに、うちに源氏よみて、さかきこそいみじけれ。あふひはしかありなどきこえけり。だいばんどころのかたには、さゞれいしまきて、らんごひろふおとなどきこえけるをぞむかしのみやばらも、かくやありけんとはべりける。またふるきうたよみ、摂津の子といふ、又六条とてわかきうたよみなどありて、をりふしにつけて、心にくきごたち、おほく侍りけり。為忠といひしが子の、為業といひしにや。いづれにかありけん。かの宮によるまゐりて、ごたちとあそびけるに、ためたゞ國にまかりけるほどなりけるに、とし老いたるこゑにて、やつはしとあまのはしだてと、いづれまさりておぼえさせ給ひしと、たよりにつたへ給へなどいひけるを、のちに又あるごたち、かくことづてし給ふ人をば、たれとかしりたまひたるといひければやつはし、あまのはしだてなど侍りけるに、心え侍りぬといひけるを、つぎの日よべ心えたりといはれしこそ、猶そのひとのことゝおぼゆるなどいひけるをきゝて、つのごとりもあへず、心えずのことや。ゝつはしなどいはんからに、われとや心うべき。ながらのはしといはゞこそ、われとはしらめといひけるも、をかしく、又つちみかどの齋院と申して、〓子内親王と申しておはしき。その齋院は、つねにのりのむしろなどひらかせ給ひて、法文のことなど、僧まゐりあひて、たふときことゞも侍りけり。雅兼入道中納言などまゐりつゝ、もてなしきこえ給ひけるとかや。哥なども、人々まゐりてよむをりも侍りけり。水のうへの花といふ題を、ときのうたよみども、まゐりてよみけるに、女房の哥、とり<”にをかしかりければむくのかみとしよりも、むしろにつらなりて、このうたは、囲碁ならばかたみせむにてぞよく侍らんなど、とり<”にほめられけるとぞ。ゝのひとりは、ほりかはのきみとて、顕仲伯のむすめの おはせしうた、
  雪とちる花のしたゆく山水のさえぬや春のしるし成るらん
  春かぜにきしの桜の散まゝにいとゞ咲そふ浪の花哉
このほかもきゝ侍りしかど、忘れにけり。入道治部卿の、あらしやみねをわたるらん。とよみ給ふ、そのたびの哥なり。白河院哥どもめしよせて、御らんじなどせさせ給ひけり。一院の御むすめなればにや。ことのほかに、あるべかしくぞ、宮のうち侍りける。女房中らうになりぬれば、みづからさぶらひにものいひなどはせざりけりとぞ、きこえ侍りし。この齋院かくれさせ給ひてのち、そのあとに、ほりかはの齋院つぎて、すみ給ひけるこそ、むかしおぼしいでゝ中院の入道おとゞよみ給ひける、
  ありすがはおなじながれと思へども昔のかげのみえばこそあらめ。