六条の右のおとゞのきんだちは、まづほりかはのみかどの御母中宮その御はらに、前坊と、ほりかはのみかどと、をのこみやうみたてまつり給へり。をんなみやは、〓子の内親王と申すは、白川院の第一の御むすめ、いせのいつきにおはしましゝ、中宮うせさせ給ひにしかば、いでさせ給ひて、ほりかはのみかどのあねにて、御はゝぎさきになぞらへて、皇后宮にたゝせ給ふ。院号ありて郁芳門院と申しき。寛治七年五月五日、あやめのねあはせゝさせ給ひて、哥合の題菖蒲、郭公、五月雨、祝、恋なん侍りける。こまかには、哥合の日記などに侍るらん。判者は六条のおほい殿せさせ給へり。周防内侍恋の哥、
こひわびてながむるそらのうき雲や我下もえの煙成るらん
とよめりけるを、判者あはれつかうまつりたるうたかなと侍りければ右哥人かちぬとてこのうた詠じてたちにけるとなん。二位大納言の宰相におはせしにかはりて、孝善が、ひくてもたゆくながきねの、とよみとゞめ侍ぞかし。永長元年八月七日、かくれさせ給ひにき。そのとし、おほ田楽とてみやこにも、みちもさりあへず、神のやしろやしろ、このことひまなかりける、御ことあるべくてなどよに申しける。この御ことを、白河院なげかせ給ふこともおろかなり。これによりて、御ぐしおろさせたまへり。あさましなど申すもおろかなり。御めのとごの、まだわかくて、廿一とかきこえしも、法師になり侍りし。かなしさはことわりと申しながらも、わかきそらにいとあはれに、ありがたき心なるべし。日野といふところに、すむとぞきゝ侍りし。つぎのとしのあき、むかしの御こと思いでゝ、そのとものぶの大とこ
かなしさに秋はつきぬと思ひしをことしも虫のねこそなかるれ
とよみて、筑前のごとて、はくのはゝときこえしがもとに、つかはしたりければ筑前かへし、
虫のねはこの秋しもぞなきまさる別のとほくなる心ちして
と侍りしを、金葉集には、きゝあやまりたるにや。かきたがへられてぞ侍るなる。六条院に御堂たてさせ給ひて、むかしおはしましゝやうに、女房さぶらひなど、かはらぬさまに、いまだおかれ侍るめり。御かなしみ、むかしもたぐひあれど、かゝること侍らず。御庄御封など、よにおはしますやうに、しおかせ給へれば、すゑ<”のみかどの御ときにも、あらためさせ給ふことなくて、このころも、さきの齊宮、つたへておはしますとぞ、きこえさせ給ふめる。