今鏡 - 55 梅の木の下

春宮太夫の三郎にやあたり給ふらん。これもみのゝかみのむすめのはらにおはせし、太政大臣さねゆきのおとゞは、がくもんもし給ひたる人にておはせしうへに、たちゐのふるまひなど、めでたく、よきかんだちめにておはしける。四位し給ひて、前少納言にていつとなくおはしければおやの春宮の太夫殿は、身のざえなどもあり。よきものにてあるに、くちをしくとのみなげき給ひけるに、うせ給ひてのち、中弁にも、蔵人頭にもなり給ひければみのときなかりしをのみ、みえたてまつりてとぞ、思いでつゝの給はせける。おやの御やまひのほどなども、まろぶしにて、つねはあつかひきこえ給ひけるに、うせ給ひてのち、基俊のきみとぶらひにおはして、梅のえだにむすびつけられける、
  むかしみしあるじがほにて梅がえの花だに我に物語せよ
とはべりければこのおとゞの御かへし、
  ねにかへる花の姿のゆかしくはたゞこのもとをかたみとはみよ
とぞ侍りにける。おとうとの左衛門督より下らうにて、頭にてならび給へるに、頭中将は上らふにておはしけれど、このあにはざえもおはし、いのちもながくて、おほきおとゞまでいたり給へる、いとめでたし。院くらゐにおはしましゝ時、内宴おこなはせ給ふに、詩つくりてまゐらんとし給ふを、御このうちのおとゞは、さらではべりなん。としもあまりつもり給ひ、御ありきもかなひ給はぬに、みぐるしといさめ申し給ひければ中院入道おとゞに、内大臣かく申し侍るはいかゞと申しあはせ給ひければかならずまゐらせ給ふべきことなり。おぼろげに侍らぬことなるに、みかどの御をぢにおはしましゝ、おほきおとゞのまゐらせ給はざらん、くちをしく侍りなどはべりければうまごの実長の大納言の、宰相中将と申ししに、かゝりてこそまゐり給ひけれ。御ぐしおろし給ひしも、中院かくと申し給ひければしか侍まじきことにやとこそ、思ひ給へてすぎ侍れ。おぼしめしたつならば、いとめでたきことに侍り。おなじくはさはりなきほどにとく侍らん。めでたきことゝの給はせければ入道し給ひてぞうせ給ひにし。おとうとの左衛門督は、御こゑめでたく、うたをよくうたひ給ひて、成道の大納言にも、とり<”にぞ申しける。その左衛門督通季と申ししは、春宮太夫の四郎にておはせしなるべし。みめもきよらに、おほきにふとりたる人にておはしき。はゝは二位の御子にて、むかひばらにておはせしかば、あにをもこえて、頭中将、頭弁にて、ならびておはしき。ことのほかによにあひたる人にて、通季、信通とて、ひとてにておはせしに、たちならび給ひけるに、信通の君はちひさく、これはおほきにおはすれば、はゝの二位殿、これはいづれかかたはと申し給ひければ白河院はをとこのおほきなるは、あしきことかはとぞおほせられける。実行の太政のおとゞの御子は、内大臣公教と申しき。すりのかみ顕季と申ししむすめのはらにおはす。その御はゝはうたよみにおはしき。少将公教のはゝとて、集などにおほくおはすめり。ときはの山は春をしるらん。などこそいうにきこえ侍れ。内のおとゞは、わかくよりみめ心ばへも、思ひあがりたるけしきにぞおはしける。蔵人の少将、四位の少将など申ししほど、左右の御てのうらにかうになるまでたきものしめて、月いだしたるあふぎに、なつかしきほどにそめたるかりぎぬなどき給ひて、さきはなやかにおはせて、ゆふつかたなどに、つねに三条むろまち殿に、院女院などおはしますかた<”にまゐり給へば、女房などは、四位少将の時になりにたりなどぞいはれけるとぞきこえし。ざえなどもおはし、ふえもよくふき給ひき。心ばへなどおとなしくて、公事などもよく つとめ給ふ。世のさだなどもよくおはせしを、世の人のやうに、あながちなるついぜうもし給はずなどおはしければにや。いへなどはかなひ給はでぞ有りける。蔵人頭けびゐしの別當などし給ひしもいとよくおはしけり。左大将なんど申すほど、鳥羽院の御うしろみ、院のうちとりさたし給ひしかども、われとくにひとつもしり給はず。賢人にぞおはすめりし。てゝの太政のおとゞよりも、さきにうせ給ひにし、おほかたおとなしきやうにふるまひて、蔵人の頭になり給へりしに、おとうとにおはせし公行の、弁にはじめてなりて、あつひたいのかぶりになし給ひければわれもいまはあつひたひにせんとて、おなじやうにして、うちにまゐり給へるに、成通宰相の中将にはじめてなりて、しばしはすきひたいのかぶりにてとやおぼしけん。うちにまゐり給ひて、頭中将のかぶりをみ給ひて、ひたいにあふぎさしかくして、まかりいで給ひて、やがてあつひたひになりておはしける。成通の御心ばへは、よのさだをばいたくもこのみ給はで、公事などは識者におはせしかど、よのまめなることはとりいられぬ御心にや。蔵人頭も、けびゐしの別當もへ給はず。侍従大納言などいひてすぎ給ひにき。公教のおほい殿は、三条の内大臣ともたかくらのおとゞとも申すなるべし。三条のおとゞは能長のおとゞを申ししかば、いひかぶるなるべし。高倉のおとゞのひめぎみ、清隆の中納言のむすめのはらにおはする院の女御にたてまつり給へり。いまむめつぼの女御と申すなるべし、御名こそいとやさしくきこえ侍れ。そのおとうとのひめぎみは、ちゝおとゞうせ給ひてのち、おほぢのおほきおとゞ、さたし給ひて、今の摂政殿、右のおとゞなどきこえさせ給ひしときまゐり給ひて、きたのまん所とぞきこえ給ふ。おのこ公達は、おなじ御はらにおはする、大納言實房と申すこそ、うちのおとゞうせ給ひて後、三位の中将になり給ふ。ことの外の御さかえなるべし。すゑのこにおはすれど、むかひばらなれば、あにふたりにまさり給へるなるべし。左衛門督実國と申すは中納言にておはす也。このころみめよきかんだちめときこえ給ふ。またふえもふき給ひて、御おやのあとつぎ給ふとぞ。みかどの御師にもおはすときこえ給ふ。かぐらなどもうたひ給ひて、せいそだうの御かぐらにも、拍子とり給ふときこえ給ふ。その御あにゝて左大弁の宰相實綱と申すなるふみなどにたづさはり給ひて、弁にもなり給ふなるべし。僧公達も法眼など申して、山におはす也。又石山の座主などもきこえ給ふ。うちのおとゞの御つぎに、右兵衛督公行と申しし、御おとうとのおはせし宰相までなり給ひて、わかくてかくれ給ひにき。ざえなどもおはしけるにや。弁などにてもつかへ給ひき。 うたこそよくよみ給ひけれ。その御子にあきちかのはりまのかみのむすめのはらに、前大納言實長と申すおはす也。みめよきかんだちめにぞおはすなる。いりこもり給へる、わかき人たちのいかに侍よにか。実慶法眼とて山におはしけるも、うせ給ひにけり。右兵衛督の御おとうとに民部大輔公宗ときこえ給ふおはしき。うつしごゝろもなくて、つねにはものゝけにてうせ給ひにき。みめなどもよくおはしけるときこえ給ひき。みなおなじ御はらからにぞおはしける。顕季の三位のむすめの御はらにおはしけり。左衛門督通季と申しし中納言の御こにあぜちの大納言公通と申すおはす也。詩などもつくり給ふなり。くびの御やまひおもくおはすればにや。たび<つかさもじゝ給ひて、前大納言にておはすとぞ、その御子に、中将侍従などおはす也。通基大蔵卿のむすめのはらにおはすとぞ、前少将公重と申すも、左衛門督の御子なり。哥よみ給ふとぞ。また山に法印など申しておはす也。この人々の御いもうとに、廊の御かたと申して、白川院の御おぼえし給ふ人におはせし、後には徳大寺の左のおとゞの御子、二人うみ給へりき。いまの公保の大納言におはす也。いまひとりは、山に僧都と申すとぞ。左衛門督のつぎには、山の座主仁實と申しし、おなじ御はらにおはせしかば、山僧などは二位僧正などぞ申すなる。いとのうはすぐれたるもおはせざりけれども、心ばへかしこくおはせしかばにや、世のおぼえなどもすぐれ給へりけるにや。よのすゑに、さばかりの天台座主はかたくなん侍る。やまのやんごとなき堂どものやぶれたるも、おほくつくりたて、大衆などの中に、すこしもふようなるをば、よくしたゝめなどせられければよのため、かの山のため、その時はおだやかになんきこえ侍りし。伝教大師のふたゝびむまれ給ふといふ事も侍りけるとかや。白川院のかくれさせ給ひけるに、七月七日にはかに御心ちそこなひて、つとめてより御くわくらんなどきこえて、さだかにものなどおほせられざりけるに、いまはかくとみえさせ給ひけるとき、かねてより忠盛のぬしに、念佛かならずすゝめよと、おほせられおきたりければかくなんうけ給はりしと、為業といふがはゝして、たび<申しけれど、仁和寺の宮など、仏頂尊勝陀羅尼とのみおほせられて、これおなじことなりとの給はせけれど、かねてうけ給はりたるに、たがひておぼえけるに、この僧正の南無阿弥陀佛とたかく申し給へりけるなん、うれしかりしとこそのちにきこえけれ。その僧正は、ざすなどもじゝ給ひて、さかもとに梶井といふところにこもりゐて、四十にあまりてうせ給ひにけり。