ちかくおはしましゝ法性寺のおとゞは、ふけの入道おとゞの御子におはします。御はゝ六條の右のおとゞの御むすめ、仁和寺の御むろと申しし、ひとつ御はらからにおはしましゝかば、そのきたのまんどころ、むかしは白川の院にもまゐりたまひけるにこそ。仁和寺法親王をば、獅子王の宮とぞよには申しし。御母のわらはなにやおはしけん。さてこのおとゞ仁和寺の宮としたしく申しかはしたまひき。ふけのおとゞのきたのかたにては、堀川の左のおとゞの御むすめおはせしかども、それは御こおはしまさでくちをしきことゞもありけるにやよりけん。のちにはうとくなり給ひて、その六条のおとゞの御むすめの、京極のきたのまんどころにさぶらひ給ひけるを、はじめは院にめして宮うみたてまつり給へりけるほどにふけのおとゞわかくおはしける時に、はつかにのぞきてみ給へることありけるより御やまひになりて、なやみ給ひけるを、いのちもたえぬべくおぼゆることの侍れど、心にかなふべきならねば、よにながらへ侍らんこともえ侍るまじ。 又心のまゝに侍らば、いかなるおもきつみも、かぶるみにもなり侍りぬべし。いづれにてかよく侍らんなど、京極の北の方に申し給ひけるにや。いかにも御いのちおはしまさんことに、まさることはあるまじければとて、院に申させ給ひたりければゆるしたまはらせ給ひたりけるとかや。ひがことにや侍らん。人のつたへかたり侍りしなり。さてすみ給ひけるほどに、まづはひめぎみうみ給ひ、又このおとゞをも、うみたてまつり給ひてのち、さてうるはしくすみ給ひけるとぞうけ給はりし。このおとゞ、保安二年のとし関白にならせ給ふ。御とし廿五にぞおはしましゝ。同四年正月に、さぬきのみかどくらゐにつかせ給ひしかば、摂政と申しき。みかどおとなにならせ給ひて、関白と申ししほどに、近衛のみかど位につかせ給ひしかば、又摂政にならせ給ひき。久壽二年七月このゑのみかど、かくれさせたまひて、この一院位につかせ給ひしにも、又関白にならせ給ひしかば、四代のみかどの関白にて、ふたゝび摂政と申しき。昔もいとたぐひなきことにこそ侍りけめ。おほきおとゞにも、ふたゝびなり給へりし。いとありがたく侍りき。藤氏の長者さまたげられ給ひしも、左のおとゞのことにあひ給ひしかば、保元々年七月に、さらにかへりならせ給ひにき。同三年八月十六日、二条のみかどくらゐにつかせたまひし時、いまのとのゝ御あにゝおはしましゝ、右のおほいまうちぎみに、関白ゆづりきこえさせ給ひて、大とのとておはしましゝに應保二年に御ぐしおろさせ給ひてき。御とし六十六とぞうけ給はりし。長寛二年二月十九日六十八ときこえさせ給ひしとしかくれさせ給ひにき。むかしまだをさなくおはしましゝ時、かすがのまつりのつかひせさせ給ひしに、内侍周防のごまつりて、行事弁ためたかに申しおくりける、
いかばかり神もうれしとみかさ山ふたばの松のちよのけしきを
そのかへしは、をとりたりけるにや。きこえ侍らざりき。いのりたてまつりたるしるしありて、めでたくひさしぐせさせ給ひき。法性寺の御堂の御所などつくりて、貞信公の御堂のかたはらに、すませたまひしかば、法性寺殿とぞ申すめる。むかしより摂政関白つゞきておはしませど、みの御ざえはたぐひなくおはしましき。才學もすぐれておはしましけるうへに詩などつくらせ給ふことは、いにしへの宮帥殿などにもおとらせたまはずやおはしけん。哥よませ給ふ事も心たかくむかしのあとをねがひ給ひたるさまなりけり。管絃のかた心にしめさせ給ひて、さうのことを、むねと御遊などにもひかせ給ふとぞきゝ侍りし。ちゝおとゞばかりは、おはしまさずやありけん。てかゝせ給ふ事は、むかしの 上手にもはぢずおはしましけり。まなもかなもこのもしくいまめかしきかたさへそひて、すぐれておはしましき。内裏の額ども、ふるきをばうつし、うせたるをばさらにかゝせ給ふとぞ、うけ給はりし。院宮の御堂御所などの色紙形は、いかばかりかはおほくかゝせ給ひし。御願よりはじめて、寺々の額など、かずしらずかゝせ給ひき。よかはの花臺院などは、ふるきところの額もむかへかうすゝめけるひじりの申したるとてかゝせ給へりとぞ、山の僧は申しし。又人の仁和寺とかより、額申したりければかゝせ給ひけるほどに、おくのえびすもとひらとかいふがてらなりときかせ給ひて、みちのおくへ、とりかへしにつかはしたりけるを、かへしたてまつらじとしけるを、めの心かしこくやありけん。かへしたてまつらざらんは、しれごとなりといさめければかへしたてまつりけるに、みまやとねりとか。つかはしたりける御つかひの、心やたけかりけん。みつにうちわりてぞもてのぼりける。はしらをにらみけんにも、をとらぬつかひなるべし。えびすまでも、なびきたてまつりけるにこそ。又いづれの御願とかのゑにいゐむろの僧正たふとくおはすることかくとて、冷泉院の御たちぬかせ給へるに、僧正にげ給へるあとにとゞまれる三衣はこのもとにて、みかどのものゝけうたせ給ひたるところのしきしかた、これはえかゝじとて、もじもかゝれでいまだ侍る也。御てならびなくかゝせ給へども、さやうの御よういは、ありがたきことぞかし。またをさなくおはしましし時より、うたあはせなどあさゆふの御あそびにて、もととし俊頼などいふ、ときのうたよみどもに、人の名かくして、はんぜさせなどせさせ給ふことたえざりけり。御うたなどおほくきゝ侍りしなかに、
わたのはらこぎいでゝみれば久かたの雲ゐにまがふおきつしら浪
などよませ給へる御うたは、人丸がしまかくれゆく舟をしぞ思ふ。などよめるにもはぢずやあらんとぞ人は申し侍りし。
よし野山みねのさくらやさきぬらんふもとの里に匂ふ春かぜ
などよませ給へるも、心もことばもたへにして金玉集などに、えらびのせられたる哥のつらになん、きこえ侍るなる。からのふみつくらせ給ふ事もかくぞありける。さればふみの心ばへしらせ給ふ事、ふかくなんおはしける。白川院にもみまきの詩えらびてたてまつり給ひ、もとゝしのきみにも、からやまとのをかしき事の葉どもをぞ、えらびつかはせ給ひける。かやうのことゞもおほくなんはべるなり。又つくらせ給へるからのこと葉ども、御集とて、唐の白氏の文集などのごとくにことこのむ人、もてあそぶとぞうけ給はる。 かくざえもおはしまして、日記などもかゞみをかけておはしませば、左大弁ためたかといひし宰相は、日本はゆゝしく、てつらなるくにかな。さきの関白を一の人にて、このおとゞ、はなぞのゝおとゞふたり、わかき大臣よくつかへぬべきを、うちかへつゝ公事もつとめさせで、この殿一の人なればいたづらにあしひきいれてゐたまへるこそをしけれとぞいはれけるとなんきこえ侍りし。



