今鏡 - 35 薄花桜

むかしは世もあがりて、うちつゞきすぐれ給へるは申すべきならず。又とりわきたる御のうなどはつぎのことにて、ちかき世の関白には、大殿とてをぢの大二条殿のつぎに、一の人におはしましゝぞ、御みめもよく、御心ばへもすゑさかえさせ給ふことも、すぐれておはしましゝか。その御名は、もろざねとぞきこえさせ給ひし。宇治のおほきおとゞの、第二の御子におはしましき。御母贈従二位藤原の祇子と申しき。四条の宮とひとつ御はら也。大臣の位にて四十二年おはしましき。承保二年九月、内覧の宣旨かぶり給ひて十月三日氏の長者にならせ給ふ。十五日に関白にならせ給ひき。御とし三十四、白河院の御時なり。大将はのかせたまひて、御随身猶たまはらせ給ひて、手車の宣旨かぶらせ給ふ。承暦四年十月に、太政大臣のかみにつらなり給ふべき宣旨ありき。堀川院くらゐにつかせ給ひし日摂政にならせ給ふ。同四年うとねり随身たまはり給ふ。寛治二年十二月に、太政大臣になり給ふ。同四年摂政の御名はかはりて、関白と申ししかども、猶つかさめしなどのことは、おなじことなりき。嘉保元年三月関白のかせ給ひても、御随身はもとのやうにつかはせ給ひき。同三年正月なかのへのてぐるまの宣旨ありき。康和三年正月廿九日、御ぐしおろさせ給ふ。二月十三日、宇治にてうせさせ給ふ。御とし六十におはしましき。大殿と申し、又のちのうぢの入道殿とも、又京極殿とも申すなるべし。寛治八年、高陽院にて哥合せさせ給ひし時の哥よみども、 昔にもはぢぬ御あそびなるべし。ちくぜんのごのうすはなさくらの哥、まさふさの中納言の、白雲とみゆるにしるし、といふ哥にまけ侍りしを殿より、
  しら雲はたちかくせどもくれなゐのうすはなざくら心にぞしむ
とおほせられたりしかば、ちくぜんのごの御かへしたてまつるに、
  白雲はさもたゝばたてくれなゐの今一しほを君しそむれば
と申したりし、いとやさしくこそ侍りしか。御心ばへなどのなつかしく、おはしましけるにこそ。御まり御らんぜさせ給ひけるに、もりながあはぢのかみといひしを、ことのほかにほめさせ給ひけるほどに、しなのゝかみゆきつなも、心にはをとらず思て、うらやましくねたくおもひけるに、御あしすまさせ給ひけるに、つみたてまつるやうにたび<しければいかにかくはとおほせられければ、まりもみしらぬはぎのといひつゝ、あらひまゐらするを、ゆきつなもよしとぞおほせられける。御かへりごとに、こそ<となでたてまつりける、もとのさるがうなれども、ものこちなきしうには、さもえまさじかしとおぼえて、またもりながのぬし、花ざかりにまりもたせて、うちへまかりけるに、ゆきつなさそひにやりたりければ御ものいみにこもりて、人もなければけふはえまゐらじと、返事しけるをきゝつけさせ給ひて、たゞいけとて、うすいろのさしぬきのはりたる、かうのそめぬのなど、をさめ殿よりとりいださせて、にはかにぬはせて、御まり花のえだにつけてみまやの御馬に、うつしおきて、いだしたてゝつかはしければけふこそこのついでに、女にみえめとおもひて、日ごろはあはぬ女の家のさじきに馬うちよせて、かたらふほどに、御馬にはかにはねおとして、まへのほりけにうちいれてけり。かしらくだりのこる所なく、つちかたにあみたりけるを、女いへにいれて、あらひあげて、いとほしさにこそあひにけれ。御馬はしりてみまやにたちにけり。あやしくきこしめしけるほどに、ゐかひおひつきてかくと申しければいかにあさましく、をかしくおぼしめしけん。さてしばしは、えさしいでもせざりけるとぞ、きこえ侍りし。