大二条殿の女君は、後朱雀院の女御におはせし、院うせさせ給ひて、七八年ばかり やありけむ。御ぐしおろし給ひて、十余年ばかりすぎて、うせ給ひにき。長久二年に哥合せさせ給へりしに、良暹法師の人にかはりて、
みがくれてすだくかはづのもろ聲にさわぎぞ渡るゐでのうき草
とよめる、この哥合のうたなり。兼長の君は、おのがかげをやともとみるらん。とよみ、永成法師はいのちはことのかずならず。とよめる。かやうのよき哥どもおほく侍り。天喜元年御ぐしおろし給ひて、治暦四年にぞうせさせ給ひにし。こうきでんの女御と申しき。おなじ御時内侍のかみ真子と申ししも、よにひさしくおはしき。第二の御むすめにやおはしけん。三君は後冷泉院の女御にまゐりて、きさきにたち給ひて、皇后宮と申しき。のちに皇太后宮にあがりて、承保元年の秋、御ぐしおろし給ひてき。猶きさきの位にて、ひえの山のふもと、をのといふさとにこもりゐさせ給ひて、みやこのほかに、おこなひすまし給へりき。雪おもしろくつもりたるあしたに、白河院にみゆきなどもやあらんと思て、ある殿上人、馬ひかせてまゐり給へりけるに、院いとおもしろき雪かなとおほせられて、雪御覧ぜんとおもほしめしたりけるに、馬ぐしてまゐりたる、いみじくかんぜさせ給ひて、御随身のまゐりたりける、ひとり御ともにて、にはかに御幸有りけるに、北山のかたざまに、わたらせ給ひければその御随身、ふと思よりて、もしをのゝきさきの、山ずみし給ふなどへや、わたらせ給はんずらんと思ひて、かの宮にまうでつかうまつるものにやはべりけん。にはかにしのびてみゆきのけさ侍る、そなたざまにわたらせ給ふ。もしその御わたりなどへや、侍らんずらんと、つげきこえければかの入道のみや、その御よういありて、法花堂に、三昧僧經しづやかによませさせ給ひて、庭のうへいさゝか人のあとふみなどもせず。うちいで十具ばかり有りけるを、なかよりきりてそで廿いださんよういありけるを、もしいりて御らんずることも侍らん。いとみぐるしくやと、女房申しけれど、きりていだし給ひけるに、すでにわたらせ給ひて、はしかくしのまに、御車たてさせ給ひてかくとやはべりけん。さやうに侍りけるほどに、かざみきたるわらは二人、ひとりはしろがねのてうしに、みきいれてもてまゐり、いま一人はしろがねのをしきに、こがねのさかづきすゑて、大かうし御さかなにて、いだし給へりければ御ともの殿上人、とりてまゐりて、いとめづらしき御よういにはべりけり。かへらせ給ひてのち、かしこくうちを御らんぜで、かへらせ給ひぬなど、ごたち申しければ雪見にわたり給ひて、いり給ふ人やはあるとぞのたまはせける。月と雪ともきこえ はべり。さて院より御つかひありて、いとこゝろぐるしく、おもひやりたてまつるに、うちいでなどこそよういして、有がたくもたせ給へりけれとて、みのゝくにとかや御庄の券たてまつらせ給へりければまゐりつかうまつる、をとこをんな。これかれのぞみけれど、みゆきつげきこえける随身に、あづけたまひけるとぞきゝ侍りし。そのとねりの名はのぶさだとかや。殿上人はなにがしの弁とかや。たしかにもきゝ侍らざりき。そのをのゝてらなどは猶のこりて三昧おこなふ僧も、まだかすかにはべるなり。きさきまだおはしましけるをり、ゆふだちのそら物おそろしく、なる神おどろ<しかりけるに、御經よみて、ゐさせ給へりけるを、かみおちて、御經などもかみの所ばかりはやけて、もじはのこり、御身には露のこともおはしまさゞりける、いとたふとく、あさましきことゝぞきゝ侍りし。うせ給ひけるときも、いとたふとくて、浄土にまゐり給ふとぞ申し侍りし。大二条殿の君だちかくなり。



