さて後一条院の御ときよりちかきやうに侍れど、十代にみよあまらせ給ひにけり。今は當今の御事、申すもはゞかりおほく侍れど、つゞきにおはしませば、事あたらしくはべれど、申すになむ。當代は一院の御子、御母は皇后宮滋子ときこえさせ給ふ。贈左大臣平時信のおとゞの御むすめ也。みかど應保元年かのとのみのとしむまれさせ給ひて、仁安元年十月十日春宮にたゝせ給ふ。御とし五、みかどよりも、二年あにゝておはします。あに春宮は三条院のれいなるべし。同三年二月十九日、位につかせ給ふ。御としやつにおはします。おなじみかど申せども、よの中へだてある事もなく、一院あめのしたしろしめし、御母ぎさき、さかりにおはしませば、いとめでたき御さかえなるべし。しかあれば、ふたばの松のちよのはじめ、いとめでたくつたへうけたまはり侍りき。御母ぎさきこのみかどうみ奉り給ひて、五六年ばかりにや。女御ときこえさせ給ひて、仁安三年と申ししやよひのころ、皇大后宮にたゝせ給へり。いまは女院と申すとぞ。いとめでたき御さかえにおはします。おほくの、女御きさきおはしますに、みかどうみ奉り給ふべかりける御すぐせ、申すもおろかなり。さきのみかどの御時も、この御世にも、御さんの御いのりとのみきこえて、まことにはあらぬ事のみきこえ給ひしに、いとありがたくきこえさせ給ふ。代々のみかどの御母、ふぢなみの御ながれにおはしますに、ほりかはの御門の御はゝぎさきも、関白の御むすめになりて、女御にまゐり給へれども、まことには源氏におはしませば、ひきかへたるやうにきこえさせ給ひしに、いま又たひらのうぢの國母、かくさかえさせ給ふうへに、おなじうぢの、かんだちめ、殿上人、このゑづかさなど、おほくきこえ給ふ。このうぢの、しかるべくさかえ給ふときのいたれるなるべし。たひらのうぢのはじめは、ひとつにおはしましけれど、にきの家と、よのかためにおはするすぢとは、久しくかはりて、かた<”きこえ給ふを、いづかたもおなじ御よに、みかどきさきおなじ氏にさかえさせ給ふめる。平野は、あまたのいへのうぢ神にておはすなれど、御名もとりわきて、この神かきのさかえ給ふときなるべし。このきさきの御はゝ、あきよりの民部卿の御むすめにおはしますなるべし。だいごのみかどの御はゝかたのいへにておはしますのみにあらず。きみにつかへ奉り給ふいへ、かた<”しかるべく、かさなり給へるなるべし。いまのよの事はゆかしくはべるを、 えうけたまはらで、おぼつかなき事おほくはべり。



