よつぎは、入道おほきおとゞの御さかえ申さんとて、その御事こまかに申したれば、そのゝちより申すべけれど、みなかみあらはれぬはながれのおぼつかなければ、まづ入道おとゞの御ありさま、おろ<申し侍べき也。入道前太政大臣みちながのおとゞは、大入道殿の五郎、九条の右のおとゞの御まご也。一条院、三條院、後一條院、三代の關白におはします。五十四の御とし御ぐしおろさせ給ひて、万寿四年十二月四日、六十二にてかくれさせ給ふ。をのこ君、をんなぎみ、あまたおはしましき。をんなぎみ第一のは、上東門院と申して、後一条院、後朱雀院、二代のみかどの御はゝなり。つぎに第二の御むすめは、三条院の中宮妍子と申しき。陽明門院の御母也。第四は後一条院の中宮威子 と申す。二条院と、後三条院の皇后宮との御母なり。第六のきみは、後冷泉院の御母、内侍のかみ嬉子と申しき。これみなたかつかさどのゝ御はらからなり。をとこ君だち、太郎は宇治のおほきおとゞ、つぎは二条殿、またおなじ御はらからなり。堀川の右のおとゞ、閑院の東宮太夫、無動寺のむまのかみ、三條の民部卿、このよところは、たかまつの御はらの君だちなり。この御はらに、女君ふたところおはしき。ひとりは小一条院とて、東宮より院にならせ給へりし、女御にまゐり給へりき。いまひとりは、土御門の右のおとゞのきたのかた也。むかしもいまも、かゝる御さかえはありがたきなるべし。 上東門院は、一条院のきさき、二代のみかどの御母なり。御ありさまさきにこまかに申し侍りぬ。つぎに妍子と申すは、女院とおなじ御はらからにおはします。寛弘元年十一月、内侍のかみになり給ひて、やがて正四位下せさせ給ふ。十二月に三位にあがらせ給ふ。七年正月に二位にのぼり給ひて、同年二月に、三条院東宮と申しし女御にまゐり給ふ、くらゐにつかせ給ひて、寛弘八年八月に、女御の宣旨かうぶり給ふ。長和元年二月十四日、中宮にたち給ふ。みかどくらゐさらせ給ひて、寛仁二年十月十六日、皇后宮にあがり給ふ。万寿四年九月十四日、卅四にて御ぐしおろして、やがてその日かくれさせ給ひにき。枇杷殿の皇太后宮と申す。隆家の帥くだり給ひけるに、このみやより、あふぎたまはすとて、
すずしさはいきの松ばらまさるともそふるあふぎの風な忘そ
この宮の御はらに、三条院のひめみやおはします。そのみや禎子の内親王と申して、治安三年一品の宮と申す。万寿四年三月廿三日、後朱雀院の東宮と申ししとき、まゐらせ給ひき。御とし十五にぞおはしましゝ。みかどくらゐにつかせ給ひて、皇后宮にたゝせ給ふ。のちにあらためて中宮と申しき。みかどの御ついでにかつは申し侍りぬ。後三条院の御母、陽明門院と申、この御事也。この女院の御はらに女宮たちおはしましき。良子内親王とて、長元九年十一月廿八日、伊勢のいつきときこえさせ給へりし、一品にのぼらせ給へりき。つぎのひめ宮は、娟子の親王と申しき。長元九年しも月のころ、かものいつきときこえしほどに、まかりいで給ひけるのち、天喜五年などにやありけむ。なが月のころ、いづこともなくうせ給ひにければ、宮のうちの人、いかにすべしともなくて、あかしくらしける程に、三条わたりなるところにすみ給ふなりけり。はじめは人のあふぎに、ひともじををとこのかきたまへりけるを、女のかきそへさせ給へりければ、 をとこ又みて、ひとつそへ給ふに、たがひにそへたまひけるほどに、うたひとつに、かきはてたまひけるより心かよひて、ゆめかうつゝかなることもいできて、心やあはせ給へりけん。おひいだしたてまつりて、やがてさてすみ給ひけり。をとことがあるべしなんどきこえけれど、人からのしなも、身のざえなどもおはして、世もゆるしきこゆるばかりなりけるにや。もろともに心をあはせ給へればにやありけん。さてこそすみたまひけれ。をとこそのほどは、宰相中將など申しけるとかや。のちには左のおとゞまでなり給へりき。入道おとゞの第四の御むすめ、後一条院の中宮威子と申しき。これもおなじ御はら、たかつかさ殿の御むすめなり。寛弘九年に、内侍のかみになりたまひて、後一条院くらゐの御時、女御にまゐり給ふ。寛仁二年十月に、きさきにたち給ふ。長元九年に、御ぐしおろさせ給ふ。同九月にかくれさせたまひにき。みかどは四月にうせさせ給ひ、きさきは九月にかくれさせ給ひし、いとかなしかりし御ことぞかし。その御はてに、さはる事有りて、江侍従まゐらざりけるを、人のなどまゐらざりしぞと申したりければ、
わが身にはかなしきことのつきせねば昨日をはてと思はざりけり
とぞきこえける。このきさきのうみたてまつりたまへるひめみや、章子内親王と申し、二条院と申す。この御事也。後冷泉院東宮におはしましゝ時まゐらせ給ひて、永承元年七月に、中宮にたゝせ給ふ。治暦四年四月に皇后宮にあがらせ給ひき。うちにまゐらせ給ひて、ふぢつぼにおはしましけるに、故中宮の、これにおはしましゝ事など、おもひいだして、出羽弁がなみだつゝみあへざりければ、大貮の三位、
しのびねのなみだなかけそかくばかりせばしと思ふころの袂に
とよまれ侍りければ、出羽弁、
春の日にかへらざりせばいにしへの袂ながらや朽はてなまし
とぞかへし侍りける。馨子の内親王と申すも、又おなじ御はらにおはします。長元四年に、かものいつきにて同九年にいでさせたまひて、永承六年十一月、後三条院東宮におはしましゝ女御にまゐらせたまひき。御とし廿三、承保元年六月廿二日、皇后宮にたち給ふ。延久五年四月廿一日、御ぐしおろさせ給ひき。院御ぐしおろさせ給ひしおなじ日、やがておなじやうにならせ給ひし、いとあはれに、ちぎり申させ給ひける御すぐせなり。きさきの くらゐはもとにかはらせ給はず。入道殿の第六の君は、後冷泉院の御母におはします。みかどの御ついでに申し侍りぬ。



