このみかどの御はゝ、うみおきたてまつり給ひて、うせ給ひにしより、鳥羽の女院やしなひたてまつり給ひて、をさなくおはしましゝほどに、仁和寺におはしまして、五の宮の御弟子にて、倶舎頌など、さとくよませ給ひて、ぢく<”よみつくさせ給ひて、その心ときあらはせるふみどもをさへ、つたへうけさせ給ひて、ちゑふかくおはしましけり。院位につかせ給ひしかば、當今の一の宮にておはしますうへに、びふく門院の御やしなひごにて、このゑのみかどの御かはりともおぼしめして、この宮に位をもゆづらせ給ひつらんと、はからはせ給ひければ、宮こへかへり出させ給ひて、みこの宮、たからのくらゐなど、つたへさせ給へりき。すゑの世の賢王におはしますとこそ、うけ給はりしか。御心ばへもふかくおはしまし、うごかしがたくなんおはしましける。廿三におはしましゝ御とし、御やまひおもくて、わか宮にゆづり申させ給ひて、いくばくもおはしまさゞりき。よき人は、ときよにもおはせ給はで、久しくもおはしまさゞりけるにや。末の世、いとくちをしく、みかどの御くらゐは、かぎりある事なれど、あまりよをとくうけとりておはしましけるにや。又太上天皇てうにのぞませ給ふつねの事なるに、御心にもかなはせ給はず、よのみだれなほさせ給ふほどゝいひながら、あまりにはべりけるにや。よくおはしましゝみかどとて、よもをしみたてまつるときこえ侍り。二条院とぞ申すなる。ふるき后の御名なれど、をとこ女かはらせ給へれば、まがはせ給ふまじきなるべし。されどおなじ御名はふるくも侍らぬにや。このみかどの御母は大納言經實の御むすめ、その御はゝ、春宮大夫公実の御むすめなり。その大納言の中の君は、花ぞのゝ左のおとゞの 北のかたなれば、あねの姫君を子にして、院のいま宮とておはしましゝに、たてまつられたりし也。このみかど、うみおきたてまつりてうせ給ひにき。后の位おくられ給ひて、贈皇大后宮懿子と申すなるべし。御おやの按察大納言も、おほきおとゞ、おほきひとつのくらゐおくられ給へるとなむうけ給はる。さる事やあらんともしらで、うせ給ひにしかども、やんごとなき位そへられ給へり。御すゑのかざりなるべし。はかなくて、きえさせ給ひにし露の御いのちも、后おくられ給へば、いきてなり給へるもむかしがたりになりぬれば、のこり給ふ御名は、おなじ事なるべし。かのゆづられておはしましゝみかどは、新院と申して、まだをさなくて、太上天皇とておはします也。二条院の御子、ふたりおはしますなる御中に、第二のみこにおはしますなるべし。御母こと<”にきこえさせ給ひき。このみかどの御はゝ、徳大寺の左大臣の御むすめと申すめりしも、うるはしき女御などに、まゐり給へるにはあらで、忍びてはつかにまゐり給へるなるべし。さればたしかにもえうけ給はり侍らず。みかどたづねいで奉りてのち、中宮やしなひ奉り給ひて、母后におはしますなる。永万元年六月廿五日、位につかせ給ふ。御とし二、よをたもたせ給ふ事三年にやおはしますらむ。一院おぼしめしおきつる事にて、東宮に位をゆづり奉り給ひて、をさなくおはしますに、太上天皇と申すも、いとやんごとなし。御年二にて、位につかせ給ふ事、これやはじめておはしますらん。このゑのみかどは、三にてはじめてつかせ給ふと申ししも、はじめたる事とこそうけたまはりしか。おほくはいつゝなどにてぞつかせ給ふ。からくにゝは、一なる例もおはしましけりとかきこえき。このみかどの御母、いまの中宮育子と申して、法性寺の入道、前のおほきおとゞの御むすめにおはします。さきのかうづけのかみ源のあきとしのむすめの御はらとなん。みかどのまことの御母の事は、さきに申し侍りぬ。この中宮、二条のみかどおはしまさねども、いまのこくもとて、なほうちにおはしませば、むかしにかはれる事なくなむ、おはしましけん。りんじのまつりの四位の陪従に、きよすけときこゆる人、もよほしいだされて、まゐられたりけるに、せんだいの御ときはくものうへ人なりけれど、このよには、まだ殿上もせねば、たちやすらひて、北のぢんのかたにめぐりて、きさきのみやのおはします、ごたちのつぼねまちなどみるに、又殿上のかたざまへまゐりて、はるかに見わたしなどしけるにも、むかしにかはりたる事もなく、なれならひたりし人どものみえければ、きさきの御かたの人に、物など申しけるついでに、ひあふぎの、かたつまををりてかきつけて、ごたちの中に申しいれさせける、
むかしみし雲のかけはしかはらねど我身一のとだえ也けり
いとやさしく侍る事ときこえ侍りき。



