今鏡 - 25 ひなの別れ

かのみちのりの大とこのゆかり、うら<にながされたる、みなめしかへして、世みなしづまりて、うちの御まつりごとのまゝなりしに、みかどの御はゝかた、又御めのとなどいひて、大納言經宗、別當惟方などいふ人ふたり、世をなびかせりし程に、院の御ため、御心にたがひて、あまりの事どもやありけん。ふたりながらうちに候ひける夜、あさましき事どもありて、おもひたゞしきさまにきこえけるを、法性寺のおほきおとゞの、せちに申やはらげ給ひて、おの<ながされにき。このころはめしかへされて、大臣の大将までなり給へるとこそ、うけたまはれ。さまであやまたずおはしけるにや。宰相はうきめみたりとて、かしらおろされにけり。それもかへりのぼりて、おはするとかや。鳥羽院うせさせ給ひしほどに、世のみだれいできてより、かた<”ながされ給ひし人、たび<にそのかずおはしき。はじめのたび、さぬきの院の御ゆかり、おほいどのがたなど、廿四五人ばかりやおはしけん。よとせばかりありて、かの衛門督とかやきこえし人のみだれに、少納言の大とこの子ども八九人ばかりうら<へときこえ侍りき。事なほりしかば、その人々はめしかへして、又のとしの春、もろなかの源中納言とかや、衛門督におなじ心なるとて、あづまのかたへおはすときゝ侍りき。しか有りし程に、そのころかの大納言宰相とふたり、阿波國ながとのかたなどにおはしき。そのとしの六月にやありけん。いづものかみ光保、その子光宗などいひし源氏のむさなりし人、つくしへつかはして、はてはいかになりにけるとかや。その人のむすめとかや、いもうとゝかやなる人の、鳥羽院にときめく人にて、いとほしみのあまりにや。二条院、東宮とておはしましゝ御めのとにて、くらゐにつかせ給ひにしかば、内侍のすけなどきこえき。そのゆかりにて、ときにあへりしに、内の御かた人どもの、かく事にあへりしかばにや、又源氏どもの、しかるべくうせんとてにやありけん。又さばかりの少納言うづまれたるもとめいでたるにやよりけん。かくぞなりにし。かやうにて、いまはなに事かはとおぼえしに、かくおはしますべかりけるを、そのをりも又いかゞうたがはせ給ひけん。皇子の御かた人とおぼしき人、つかさのきなどして、又ながさせ給へりき。おほかた六七年のほどに、三十余人ちり<”におはせし、あさましく侍りき。かろきにしたがひて、やう<めしかへされしに、惟方いつとなくおはせしかば、かしこより宮こへ、女房につけてときこえし、
  このせにもしづむときけば涙川ながれしよりもぬるゝ袖哉
とぞよまれ侍りける。このあにゝ、大納言光頼ときこえ給ひし、四十余にてかしらおろして、かつらのさとにこそこもりゐ給ふなれ。それはかやうの事に、かゝり給ふ事なく、何事もよき人ときゝたてまつりし、いとあはれにありがたき御心なるべし。又左兵衛督しげのりときこえし、きの二位のはらにて、そのをりは、はりまの中将、おとうとのみのゝ少将などきこえし、衛門督のみだれに、ちり<”におはせし時、中将しもつけへおはして、かしこにてよみ給ひける、
  わがためにありける物を下つけやむろの八嶋にたえぬ思ひは
とかや。ひが事どもや侍らん。