いづれのとしにかはべりけん。九月十三夜、高陽院のだいりにおはしましけるに、たきの水音すずしくて、いはまの水に月やどして、御らんぜさせ給ひて、よませたまひける、
いはまよりながるゝ水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき
とぞ聞こえ侍りし。治暦元年九月廿五日に、高陽院にてこがねのもじの御経、みかど御みづからかゝせ給ひて、御八講おこなはせたまひき。むらかみの御代のみづぐきのあとを、ながれくませ給ふなるべし。はじめの御導師は、勝範座主の、まだ僧都など聞こえし折ぞせらるゝと聞こえはべりし、いづれの問とかいひて、論義のことのよしなども、かのむらかみの御時のをぞ、ちりばかりひきかへたるやうなりけるとぞ、聽聞しける人などつたへかたり侍りし。五巻の日は宮々かんだちめ、殿上人、みなささげ物たてまつりて、たつとりのからふね、いけにうかびて、水のうへにこゑ<”しらべあひて、仏の御国うつし給へり。もみぢのにしき、水のあや、ところも折もかなへる、みのりのにはなるべし。三年十月十五日には 宇治の平等院にみゆきありて、おほきおとゞ、二三年かれにのみおはしまししかば、わざとのみゆき侍りて、みたてまつらせ給ふとぞうけ給はりし。うぢはしのはるかなるに、舟よりがく人参りむかひて、宇治川にうかべて、こぎのぼり侍りけるほど、からくにもかくやとぞみえけると、〔人は〕かたり侍りし。みだうの有様、川のうへに、にしきのかりやつくりて、池のうへにも、からふねにふえのね、さま<”しらべて、御前のものなどは、こがね白がね、色々の玉どもをなんつらぬきかざられたりける。十六日にかへられ給ふべきに、あめにとゞまらせ給ひて、十七日にふみなどつくらせたまふ。そのたびのみかどの御製とてうけ給はり侍りしは、
忽看烏瑟三明影暫駐鸞輿一日蹤
とかや、つくらせたまへると、ほのかにおぼえ侍る。折にあひて、おぼしよらせ給ひけんほど、いとめでたき事と、しりたる人申しける。そのたびぞ准三宮の宣旨は、宇治殿かうぶらせ給ひけると、聞こえさせ給ひし。そのころにや侍りけむ。内裏にて、わらはまひ御らんぜさせ給ひき。かんだちめのわかぎみたち、おの<まひ給ひき。楽人は殿上人、さま<”のふき物、ひきものなどせさせたまふ。そのなかに、六条の右のおとゞの中納言と聞こえたまひし時、そのわかぎみ胡飲酒まひ給ふを、御前にめして、御ぞたまふに、おほぢの内大臣とておはせし、座をたちて拜し給ひけるは、つちみかどのおとゞとぞ聞こえ給ひし。舞ひたまひしは、太政のおとゞとや申しけん。かくてしはすの十二日、廿二社にみてぐらたてまつらせ給ひき。みかどの御なやみの事とてつぎのとし正月一日は日蝕なりしかば、廢朝とてみすもおろし、世のまつりごとも侍らざりき。さきのおほきおとゞも御なやみとて、きさらぎのころ、皇后宮もさとに出でさせたまひき。内には孔雀明王の法おこなはせ給ひて、大御室とておはしましゝ、仁和寺の宮御でし僧綱になり、我が御身も牛車などかうぶり給ひき。みかど御こゝちおこたらせ給ふなるべし。四月にはこがねしろがね、あやにしきなどのみてぐら、神がみのやしろにたてまつらせたまひき。かゝるほどなれど、左のおとゞの御むすめの女御、皇后宮にたちたまひき。ちゝおとゞも、関白になりたまひき。内にも御なやみおこたらせ給はず。おほきおとゞも、よろづのがれ給ひて、ゆづり申し給ふなるべし。みかど世をたもたせ給ふ事、廿三年なりき。御とし四そぢによとせばかりあまらせ給へりけるなるべし。をとこにても女にても、みこのおはしまさぬぞくちをしきや。御はゝないしのかみ、御とし十九にて、この御門 うみたてまつり給ひて、かくれさせたまひにき。寛徳二年八月十一日に、皇后宮おくりたてまつられき。国忌にて、その日はよろづのまつりごと侍らず。むかしはきさきにたちたまはで、うせたまへれど、御門の御母なれば、のちには、やんごとなき御名とゞまりたまへり。