ふけの入道おとゞの御子は、法性寺のおほきおとゞ、つぎには、宇治の左のおとゞよりながときこえ給へりし、女君は高陽院と申す。泰子皇后宮ときこえたまひき。法性寺殿のひとつ御はらのあねにておはしましき。長承三年三月のころ、きさきにたち給ふ。御とし四十ときこえき。保延五年院号えさせ給ひき。左のおとゞ、御はははとさのかみもりざねといひしがむすめにやおはしけん。その左のおとゞは御みめもよくおはし、御身のざえもひろき人になんきこえ給ひし。堀川の大納言に、前書とかきこゆるふみ、うけつたへさせ給へりけり。そのふみは、匡房の中納言よりつたはりて、よみつたへたる人、かたく侍るなるを、この殿ぞつたへさせたまへりける。いまは師のつたへもたえたるにこそ侍るなれ。かやうにして、さま<”のふみどもよませたまひ、僧のよむふみも、因明などいふふみならの僧どもに、たづねさせ給ふとかやきこえき。さうのふえをぞ、御あそびにはふかせ給ふときこえたまひし。御てかゝせ給ふ事をぞ、わざとかきやつさせ給ひけるにや。あにの殿に、いかにもおとらんずればなど、おぼしたりけるを、法性寺殿はわれは詩もつくるやうに、おぼゆるものを、さては詩をぞつくらるまじきなどぞおほせられけるとかやきこえ侍りし。法成寺すりせさせ給ふ。塔のやけたるつくらせ給ひて、すがやかにいとめでたく侍りき。日記などひろくたづねさせ給ひ、おこなはせ給ふことも、ふるきことをおこし、上達部の着座とかしたまはぬをも、みなもよをしつけなどして、おほやけ わたくしにつけて、なにごともいみじく、きびしき人にぞおはせし。みちにあふ人、きびしくはぢがましきことおほくきこえき。公事おこなひ給ふにつけて、おそくまゐる人、さはり申す人などをば、いへやきこぼちなどせられけり。ならに濟圓僧都ときこえし名僧の、公請にさはり申しければ京の宿房こぼちけるに、山に忠胤僧都ときこえしと、たはぶれがたきにて、みめろむじて、もろともに、われこそおになどいひつゝ、うたよみかはしけるに、忠胤これをきゝて、濟圓がりいひつかはしける、
まことにや君がつかやをこぼつなるよにはまされるこゝめ有りけり
返し
やぶられてたちしのぶべき方ぞなき君をぞ頼むかくれみのかせ
とぞきこえ侍りける。又女えんせさせ給ふ事もあら<しくぞ、きこえ侍りける。いはひをなどいふ、ふるきいろごのみとかや思はせ給ひけるに、よるにはかにおはしたりければかくれておもひかけぬものゝ、うしろなどに有りけるを、もりのり、つねのりなどいふ人どもして、もとめなどして、かくれのあやしのかたまでみけれど、えもとめえてかへり給ひて、またひるあらぬさまにて、かくわたらせ給へると侍りければこのたびはいであひたてまつり、たいめしけるにも、むかしいまの物がたりなどして、ことうるはしく、かへりいでさせ給ひにけり。ふたゝびながら、よつかざりしなどぞいひけると、人はかたり侍りし、この御わらはなはあやぎみと申しけるに、ふけどの法性寺殿、おやこの御なか、のちにこそたがはせ給へりしか。はじめは左のおとゞ、御子にせさせたてまつり給ひけるころ、かざりたちもたせたてまつらせ給ひけるに、
よゝをへてつたへてもたるかざりたちのいしつきもせずあやおぼしめせ
とよませ給へりけるほどに、すゑには御心どもたがひて、このおとうとの左のおとゞを、院とゝもにひき給ひて、藤氏の長者をもとりて、これになしたてまつり給ふ。賀茂まうでなどは、一の人こそおほくし給ふを、あにの殿をおきて、この左のおほいどのゝ、賀茂まうでとて、よのいとなみなるに、東三条などをもとりかへして、かぎなどのなかりけるにや。みくらのとわりなどぞし給ふときこえ侍りし、ふたりならびて、内覧の宣旨などかうぶり給ひ、随身給はりなどし給ひき。かゝるほどに、鳥羽院うせさせ給ひて、讃岐院と左のおとゞと御心あはせて、この院のくらゐにおはしましし時、白河のおほいみかどどのにて、いくさし給ひしに、みかどの御まぼりつよくて、左のおとゞも、馬にのりていで 給ひけるほどに、たれがいたてまつりたりけるにか。やにあたり給ひたりけるが、ならににげておはして、ほどなくうせ給ひにき。その公だち、右大将兼長ときこえたまひし、御はゝは、師俊の中納言の御むすめ也。その大将殿は、御みめこそいときよらにあまりぞふとり給ひてやおはしましけん。御心ばへもいとうつくしくおはしけり。つぎに中納言中将師長と申ししは、みちのくのかみ信雅ときこえし、御うまごにやおはすらん。その御おとうとは、中将隆長と申しける。それも入道中納言の御はらなるべし。みなながされ給ひて、うら<におはせしに、中納言中将殿はかへりのぼり給ひて、大納言になり、大将などにおはすめり。身の御ざえなども、をさなくよりよき人にておはしますときこえ給ひき。びはゝすべてじやうずにておはしますとぞきこえ給ふ。みやこわかれて、とさの國へおはしけるに、これもりとかやいふ陪従、御おくりにまゐりけるみちにて、さうのことのえならぬしらべつたへ給ふとて、そのふみのおくに、うたよみ給へりけるこそ、あはれにかなしくうけ給はりしか。
をしへをくかたみをふかく忍ばなん身は青海のなみにながれぬ
とかやぞきゝ侍りし。あをうみはかのしらべの心なるべし。いとかなしく、やさしく侍りけることかな。もろこしに、むかし〓叔夜といひける人の琴のすぐれたるしらべを、このよならぬ人につたへならひて、ひとりしれりけるを、袁孝尼とかやいひけることひきの、あながちにならはんといひけれども、ないがしろにおもひて、ゆるさゞりけるほどに、つみをかうぶりけるときは、このしらべの、ながくたえぬることをこそ、かなしみいたみけれ。此のことのしらべをつたへ給ひけんことこそ、かしこくたのもしくも、うけ給はりしか。びはこそすぐれ給へりときこえ給へりしか。しやうのことをも、かくきはめさせ給ひて、御おほぢのあとをつがせ給ふ、いとやさしくこそ、うけ給はり侍れ。かくてとしへてのち、かへりのぼり給へるに、二条のみかど、びはをこのませ給ひてめしければまゐらせ給ひて、賀王恩といふ楽をぞひき給ひけると、つたへうけたまはる。さてもとのかずのほかの大納言にくはゝり給ひて、うちつゞき大将かけ給へるなるべし。そのほかのきみだちは、みなうら<にてかくれ給ひにける。いとかなしく、いかにあはれに、ぬしも人もおぼしけん。このならにおはせし禅師のきみも、かへりのぼり給ひてのち、うせ給ひにけり。たゞごとゞもおぼえたまはぬ御ありさまなり。この左のおとゞは、このゑのみかどの御時、女御たてまつり給へりき。おほいのみかどの右大臣、公能のおとゞの三君を、御子にし給ひて、たてまつりたまひて、皇后宮多子とぞ申しし。その左のおとゞのきたのかたは、おほいのみかどのおとゞの御いもうとなれば、そのゆかりに、御子にし給へるなるべし。このころは、大宮とぞきこえさせ給ふなり。



