かのみかどくらゐおりさせ給ひしかば、皇太后宮にあがらせ給へりき。このゑのみかどの御時も母后にて、内になほおはしましき。中宮と申ししとき、このゑのみかどの春宮におはしましゝに、ふたみやの女房たち、つねにきこえかはして、をかしきことゞもはべりけるに、ふみのつかひ、いかなるものに侍りけるにか。わろしとて、はじめは蔵人を、東宮によりやられたりければ、返事又少将ためみちしておくりたりけり。其かへりごと、春宮より公通の少将もちておはしたりけり。かやうにするほどに、左のおとゞ中宮の女房のふみもちてわたり給ひたるに、春宮の女房なげきになりて、みやつかさなどゝいかゞせんずると、さま<”ものなげきにしあへるに傅の殿のおはしましたるは、この宮人におはしませば、ことつけにてこそあれなどいへども、からくしまけてわぶるほどに、関白どのわれつかひせんとて、ふみかゝせて、中宮の御方にわたらせ給へるに、女房みなかくれて心えてさしいでねば、とかくしでうちかけてかへらせ給ひぬ。中宮には又これにまさるつかひは、院こそおはしまさめとて、かゝることこそさぶらへとて、うちの御つかひにやありけん。とうの中将とて、のりながのきみ、とばの院の六条におはしましゝに申されければいかにもはべるべきに、女房のとりつぎてをため侍れば、えなんし侍るまじきと、申させ給ひなどしてありときゝ侍りし、のちには、いかゞなり侍りけん。この女院はじめつかたは、うへつねにおはしまして、よるひるあそばせたまひけるに、すゑつかたには、兵衛のすけなどいふ人いできて、めづらしきをりも、おほくおはしましけるに、うへふとわたらせ給ひけるに、しばしみじかき御屏風のうへより、御覧じければきさき十五かさなりたる、しろき御ぞたてまつりたる御そでぐちの、しらなみたちたるやうにゝほひたりけるを、なみのよりたるをみるやうなる御そでかなど、おほせられければうらみぬそでにもやと、いらへ申させ給ひけるときこえ侍りし。うらみぬ袖も、なみはたちけり。といふ、ふるき事なにゝはべるとかや。をりふしいとやさしく侍りけることなどこそ、つたへうけ給はりしか。ひが事にや侍りけん。人のつたへはべることはしりがたくぞ、新院とをくおはしましてのち、この女院は御ぐしおろさせ給ひてけりとなん、きこえさせたまふ。 おなじことゝ申しながらも、いとあはれにかなしく、近衛のみかどの御時の中宮、呈子と申ししも、太政大臣伊通のおとゞの御むすめを、この法性寺殿の御子とてぞたてまつり給へる。此頃九条院と申すなるべし。まことの御子ならねど、院号も関白の御子とてはべるとかや。この法性寺殿は、二条のみかどの御時も、女御たてまつらせ給ひて、中宮にたち給ひき。みかどかくれさせ給ひても、いまの新院くらゐの御時、國母とて、猶うちにおはしましき。みかどくらゐさらせ給ひしかば、さとにおはしませども、猶中宮と申すなるべし。御ぐしおろさせ給へるとかや。まだ御とし廿三四などにや、おはしますらん。このころばかり、上らうの入道宮、院たち、おほくおはしますをりは、ありがたくや侍らん。女院いつところおはします。おほみや中宮、二所のきさきの宮、斎宮さい院などかた<”きこえさせ給ふ。かつはよのはかなきによらせ給ふ。ほとけのみちのひろまり給へるなるべし。



