去年は二条のみかど、ことしはこの殿の御事、をりふし心あらん人は、おもひしりぬべきよなるべし。贈太政大臣正一位など、のちにそへたてまつられ侍とぞ、きこえ給ふ。きのふ今日のちごに、おはしますを、むかし物がたりにうけ給はるやうにおぼえていとあはれにかなしく侍り。六条の摂政と申すなるべし。又なかの摂政殿と申す人も侍り。太郎におはせしかども、中関白と申ししやうなるべし。このつぎの一の人には、今の摂政のおとゞにおはします。御母はこれも國信の中納言の三のきみにぞおはする。御名は國子と聞え給ふ。三位し給ひつるとぞ、一の人藤氏の御はらの、おほくは源氏におはします。しかるべきことにぞ侍。宇治殿一条殿の御母は、一条の左大臣の御むすめ、のちの二条の関白殿は、土御門の右のおとゞの御むすめ、法性寺殿は六条の大臣、此の殿ふたところは、源中納言のひめぎみふたところにおはしませば、藤氏は一の人にて源氏は御はゝかたやんごとなし。御ながれかた<”あらまほしくも侍かな。いまのよの事、ことあたらしく申さでも侍るべけれど、ことのつゞきなれば申し侍るになん。このおとゞ永暦元年八月十一日、内大臣にならせ給ひて、同月左大将かけさせ給ひき。同二年九月十三日、左大臣にのぼらせ給ひて、永萬二年七月廿七日、摂政にならせ給ふ。御とし廿二におはしましき。やがて藤氏の長者にならせ給ひき。仁安三年二月、當今位につかせ給ひしに、又摂政にならせ給ふ。いとやんごとなく、おはしましける御さかえなり。御あにの摂政殿も、宇治の左のおとゞも、其の御子の大将殿も、長者つぎ給ひて、ひさしくおはしまさば、一の人の御子なりとも、大臣にこそならせ給ふとも、かならずしも、家のあとつがせ給ふ事かたきを、この御ほうにや、おされさせ給ひけん。みなゆめになりて、かくたちまちに摂政にならせたまひ、藤氏の長者におはします。みかさの山のあさ日は、かねててらさせ給ひけん。御身のざえをさなくよりすぐれておはしますとて、内宴の侍るなども、あにをさしおきたてまつりて、そのむしろにまじはらせ給ひき。御心ばへあるべかしく、まだわかくおはしますに、公事をもよくおこなはせ給ふ。おとなしくおはしますなり。閑院ほどなくつくりいださせ給ひて、上達部殿上人など、詩つくり、哥たてまつりなどして、むかしの一の人の御ありさまには、いつしかおはします。心ある人いかばかりかは。ほめたてまつるらん。みかどにかしたてまつらせ給ひて、内裏になりなどし侍らんも、よのためも、いとはえ<”しきことにこそ侍るなれ。ゆくすゑ思ひやられさせ給ひて、しかるべきことゝ、よのためも、たのもしくこそうけたまはれ。此ふたりの 摂政殿たち、みな御子におはしますなれば、ふぢなみのあとたえず、さほがはのながれ、ひさしかるべき御ありさまなるべし。



