たかつかさ殿の御はらの、第二の御こにては大二條殿とておはしましゝ、関白太政大臣教通のおとゞと申しき。御堂の君だちの御なかには、第五郎にやおはしけんかし。さはあれども、宇治殿のつぎに、関白もせさせ給ふ。第二の御こにてぞおはしましゝ。 大臣のくらゐにて五十五年おはしましき。治暦四年四月十七日、後冷泉院の御時、あにの宇治殿の御ゆづりによりて、関白にならせ給ひき。七十三の御としにやありけん。みかどほどなくかはりゐさせ給ひて、後三条院の代のはじめの関白、やがて同月の十九日に更にならせ給ひき。延久二年三月に、太政大臣にのぼらせ給ふ。承保二年九月廿五日にぞ、うせさせ給ひにし。御とし八十あにの宇治殿は申すべきならず。このおとゞも世おぼえなど、とり<”になむおはしましゝ。女御きさきなど、たび<たてまつらせ給ふ。家の賞かぶり給ふ事もたび<にて、御ひきいで物、御馬などたてまつり給ふ。きんだちなど、加階せさせ給ひて、もとより一の人にもをとらずなんおはしましゝ。御うしろみにてたぢまのかみ能通といふが、はか<”しきにてうしろみたてまつりければ、御家のうちも、いと心にくきことおほかりけり。いつのことに侍りけるとかや。おほみあそびに、冬のそくたいに半臂をきさせ給へりけるを、かたぬがせ給ふとき宇治殿よりはじめて、したがさねのみしろくみえけるに、このおとゞひとりは、半臂をき給へりければ、御日記にはべるなるは、予ひとり半臂の衣をきたり。衆人はぢたる色ありとぞ侍るなり。かやうなることもぞおほく侍りける、能通のぬし、宇治殿にまゐりて、おまへにめされて、まゐるとてしやくもちてまゐらんとて、蔵人所のみづしさぐりて、しやくもおかれぬみづしかな。衣冠にておまへにまゐるものは、とりてこそまゐることにてあるにと、つぶやきければ殿きかせ給ひて、かくつねにはぢしめらるゝなどぞおほせられける。しやくはそくたいにてぞもつ事にて侍を、とのゐさうぞくにも、ことにしたがひ人によるべきにや。けびゐしなどはつねにもち侍るめり。又たかみつとかきこえし人、たれにあひたてまつりたりけるとかや。車よりおりて、ふところがみをたかくたゝみなして、しやくになしてなんとれりけるとぞ、きゝ侍りし。そくたいにも、かんだちめはなちては、殿上にはもちてのぼり給はぬとかや。おほみやの右のおとゞつねすけの大納言、蔵人頭にていさかひ給ひける時、笏しでうち給ひたりけるより、とゞめられ侍とぞきゝ侍りし。御座のおほひかくなり。さほはとりはなちに侍りけるを鳥羽院の位の御ときにや。殿上人のいさかひ給ひて、そのさをゝぬきてうたんとし給ひけるより、うちつけられたるとなんきこえ侍る。もとなき事もかゝるためしにはじまれるなるべし。その御ざと申すは御倚子とて、殿上のおくのざのかみに、たてられ侍るなる。したんにてつくられて侍るなるを、むかしうだのみかど、まだ殿上人におはしまして、なりひらの中将とすまゐ とらせ給ひて、かうらんうちをらせ給ひけるを、代々さてのみをれながらこそ侍るなるに、ちかきみよにつくしのひごの守になれりける、なにがしとかやいふ人の、蔵人なりける時、したんのきれとのに申して、そのかうらんのをれたる、つくろはんなどせられけるこそ、をこのことに侍りけれ。かの能通のぬしの、しかありけるすゑなればにや。みちのりといひし少納言の大とこも、ちかくはいみじくこそ、世の中したゝむめりしか。このおとゞ左衛門督など申しけるほどにや。白川に花見にわたり給ふとて、小式部内侍にかくとおほせられければ、
春のこぬ所はなきをしらかはのわたりにのみや花はさくらん
と申したりけるこそ、いとやさしくとゞまりてみえ侍れ。和泉式部とかきたるものも侍れば、はゝのよみて侍るにや。



