今鏡 - 03 初春

後朱雀院と申す、さきの一条院の第三の皇子、御母上東門院、せんだいとおなじ御はらからにおはします。このみかど寛弘六年つちのとの酉と申しし年のしも月の廿五日にむまれさせたまひけり。七年正月十六日に、親王と聞こえさせ給ふ。御とし九つと聞こえさせ給ひき。長元九年四月十二日位につかせ給ふ。御とし廿八、そのとし御そくゐ大嘗会など過ぎて、としもかはりぬれば、いつしか、む月の七日、関白左のおとゞとて宇治のおほきおとゞおはしましゝ、女御たてまつらせ給ふ。みかどの御あにゝおはしましし、式部卿の御子の女ぎみの、むらかみの中つかさの宮の、御むすめの御はらにおはせしを、関白殿御子にしたてまつり給ひて、女御にたてまつり給へるなり。一条院の皇后宮の、うみたてまつり給へりし、一の御子におはしませば、春宮にもたち給ふべかりしを、御うしろみおはしまさずとて、二のみこにて、せんだい三のみこにて、このみかどふたり、みだうのむまご、関白の御おひにおはしませば、うちつゞきつかせ給へるなり。彼の一条院の皇后宮は、御せうとのうちのおとゞの、つくしに おはしましゝ事どもに、おもほしなげかせ給ひて、御さまかへさせ給へりしのちに、式部卿の御子をうみたてまつらせたまへるなり。から國の則天皇后の御ぐしおろさせ給ひてのちに、皇子うみ給ひけんやうにこそおぼえ侍りしか。されどかれはさきのみかどの女御にて、かのみかどかくれさせ給ひにければ、世をそむきて、感業寺とかいふ寺に住み給ひけるを、さきのみかどのみこ位につき給ひて、かの寺におはしてみたまひけるに、御心やより給ひけん。さらに后にたてまつりけると、これはおなじ御世のもとのきさきなれば、いたくかはり給はぬさまにて、なのめなるさまにて侍りき。かしこき御世の御事申し侍るもかたじけなく、かの皇后宮の女房、ひごのかみもとすけと申すがむすめ、清少納言とてことになさけある人に侍りしかばつねにまかりかよひなどして、かの宮の事もうけ給はりなれ侍りき。その式部卿の御子の御むすめにおはしませば、みかどにはめいにあたらせ給へり。かくてやよひのついたちに、きさきに立たせ給ひぬ。御とし廿二にぞおはしましゝ。もとの后は皇后宮にならせ給ひき。そのもとの后は、みかど東宮におはしましゝ時より、参り給へりき。三条院の姫宮におはします。それは御とし廿五にならせたまへりき。陽明門院と申すはこの御事なり。御ぐしのうつくしさを、故院〔え〕見まゐらせぬ、くちをしとてさくり申させ給ひけんもおもひやられて、おなじきさきと申せども、やんごとなくおはします。ひさしくうちへ参らせ給はざりけるころうちより、
  あやめ草かれしたもとのねをたえてさらに恋ぢにまどふ比哉 。 と侍りけん。御返事はわすれにけり。東宮におはしましゝ時の御息所也。このきさきに、みだうの六の君まゐり給ひて、内侍のかみと聞こえ給ひし、後冷泉院のいまの東宮におはしましゝ、うみおきたてまつりて、うせ給ひしかば、この宮はそのゝち参り給へるなり。こないしのかみの御もとに、かすみのうちにおもふ心をと、よませ給ひたる御うた、たまはり給ひけると聞こえ侍りし物を、長暦元年神無月の廿三日関白の殿〔の〕高陽院に、上東門院わたらせ給ひて、行幸ありて、きんだち院司などかゝゐどもし給ひき。かくてとしもあけぬれば、又正月二日上東門院に朝覲のみゆきありて、いづくと申しながら、猶この院のけしきありさま〔の〕、山の嵐よろづ世よばふ聲をつたへ、池のみづも、ちとせのかげをすまして、まちとりたてまつり給ひき。先帝かくれさせ給へれども、かくうちつゞきておはします、二代の國母と申すもやんごとなし。 又三日は東宮朝覲の行啓とて、内に参らせ給ふ。みかどのみゆきよりも、ことしげからぬ物から、はなやかにめづらしく、ゆげひのすけ一員などひきつくろひたるけしき、こゝろことなるべし。すべらぎの御よそひ、みこの宮の御ぞの色かはりてめづらしく、御拜のありさまなど袖ふりたまふたちゐの御よそひ、うつくしうて、よろこびの涙もおさへがたくなん有りける。つらなれるむらさきの袖も、ことにしたがへるあけもみどりも、花やかなるみかきのうちの春なりけるとなん聞こえ侍りし。